幼馴染の鶴丸に連れ出されるお話


 下宿先のワンルームに備え付けられたエアコンの音は、どれもこんなにごうごうと煩いのだろうか。薄いブランケットを手繰り寄せて寝返りを打つ、その隙間に取り留めのない思考が降って湧いて転がって、眠れないでいる。

 大学生最後の夏休みは無駄に長い。スケジュールの余白をバイトで埋めて、忙しいを装った。ラストモラトリアムっていうらしい、社会に所属するまでの執行猶予期限は、もうすぐそこまで迫っている。

 私たちは居場所を求めて、足りない頭を振り絞って、あるはずない夢を追いかけているふりをする。行きたい場所なんてわからない。なにになりたいのかもわからない。ただ、身体の中に渦巻く熱だけ、持て余している。蛹のまま、こうして柔らかなパイル地に横たわっていたい。どこにも行かないことを許されたいな、と分厚い暗幕をとつとつと針でついたような夏の夜空を見上げて思った。

 眠くならないのを言い訳にして、枕元の液晶画面をつついた。端末にぶわりと照らされた室内から、窓の向こうのアルタイルが遠のく。流れていく文字、画像。ぼんやりとした青白いぬくもりは人の集まりであるはずなのに、同じ孤独のにおいがするから親近感が持てる。みんなといるのにさみしいね、と慰めるよう撫でた文字の群れにバナーが降りてきて、メッセージの受信を知らせる。

「今から出て来れるか?」

 鶴丸からだ。短い文章にくっついたその名前を見るだけで、ほんの少し体温が上がる。幼馴染の彼に対して抱いてしまった恋心はひどく場違いな気がして、言い出せないまま歪に心へと居座っている。時計は深夜零時を回ったところだ。私はずるくて臆病だから、この想いを口に出すつもりはない。そうしていれば、鶴丸のいちばん近くに居続けるための魔法は解けないと知っているから。

 いいよと返事を打ちながら、身体を起こして髪を手櫛で整えた。「五分後に迎えにいく」ぽん、と文字の現れる音にさえ、僅かに脈が跳ねるのだからひどい。

 部屋着のキャミソール、短パンの上にシャツをかぶる。少し上がった体温のぶんだけ、素肌の上にリップとチークをのせた。夏の夜が隠してくれる三十六度七分くらいの薄い桃色は、ずるい私にお似合いだと思う。

 脱ぎっぱなしのサンダルを足先で摘んで引っ掛ける。ドアの鍵を回すと、かちゃんという音が暗闇に沈んだ廊下に転がった。映画の中で見た、大きな生き物の首輪のが外れる音に似てる。自分を縛るものから解放されたような気持ちになって、扉を開けた。水槽みたいな部屋の中に月明かりとぬるい夜風が差して、買ったばかりの黒のパンプスを照らす。浮かび上がった現実の欠片は、私の体ひとつ分の時間のあと、ぱたんと消えた。

 外に出ると、生温い風がじんわりと汗をかいた首筋に触れる。熱を隠した私には、すこしだけつめたく感じられて心地が良かった。マンションのエントランスを抜けて道に出たら、すでに鶴丸が居た。自転車のハンドルにもたれかかって空を見上げている横顔は、街灯の薄明かりの下でも、くっきりとした輪郭を保っている。

 つるまる、と名前を呼んだら二つの満月のような瞳がこちらを向いて、人好きのする笑顔を浮かべた。屈託のない表情はまるでそこだけ昼間に照らされたみたいで、胸がきゅうんと締め付けられる。眩しいものを見つけたときに虹彩が狭まるのと同じだ。どうしようもなくて、ほんのりと痛かった。

「よっ、急に呼び出して悪かったな。きみなら来てくれると信じてたぜ」
「何するの?」
「まあ、ちょっとした退屈しのぎだ」

 後ろに乗るように促されて、自転車の荷台に跨った。太腿に触れた金具は夏の夜を吸い込んで、ぬるい。

「しっかり掴まっておけよ」

 そう言われて、自分よりずっと大きな背中をまじまじと見てしまった。いつもそばにあったのに、私を追い越して広くなった鶴丸の背中。これから先、私の知らないところで、私の知らないこともたくさん背負っていくのだろうと思うと、触れるのを躊躇うくらい遠く思えた。すこしだけ悩んで服の裾を摘んだら、鶴丸がこちらを見て笑う。

「なんだ、照れてるのか?」

 今更なにを恥ずかしがることがあるんだい、と楽しそうに言うから、胸の痛みをごまかすために脇腹をくすぐってやった。いまさら、なんて自分が一番よく分かってる。

「すまんすまん、危ないから大人しくしててくれ」

 そう言いながら掴まれた手のひらが、引かれるままに腰へとまわる。シャツの薄い生地越しに触れた鶴丸の薄くてかたいお腹が、知らない男の人みたいで、触れ合ったところからぶわと頭に熱がのぼるのがわかった。恥ずかしくて、黙ってしまう。今度は茶化したりしないままで前を向いて、鶴丸は地面を蹴った。頬の熱さが、ぐんと走り出した自転車のせいで夜風に舞った。

 頭の上を街灯や高層マンションの明かりが流れ星みたいに過ぎていく。大学に進学してからも同じだけの日々をこの街で過ごしたはずなのに、初めて通る道ばかりだ。小さい頃から鶴丸にはそういうところがあった。家の間を縫うような近道も、見晴らしのいい高台も、すぐに親しんで自分のものにしてしまう。いつだって手を引いて、私を知らない場所に連れていってくれる。

 路地を抜けて、大通りを超えて、高架下を潜って、到着したのは見知らぬ学校だった。

「高校…?不法侵入するの?」
「ちゃんと許可はとってあるから大丈夫だ」

 自転車を止めた鶴丸が鍵を取り出して見せた。正門の脇の通用口についている立派な南京錠がすとんと解けて、鶴丸が得意げな顔をしている。

 夜の中で見上げた校舎の佇まいは重々しい。どこか荘厳な静けさは、海底に眠る沈没船のようだった。ぽかんと見上げていると、隣を歩く鶴丸が言う。

「こわいなら手でも繋ぐかい?」
「怖くないからいい」

 即答したらおもしろくなさそうに唇を尖らせた。さっきまで鶴丸にくっついていた腕がまだ熱いから、可愛い返事なんてできない。すぐそばで揺れる骨張った手を見つめて、最後に手を繋いだのはいつだったかな、と考えた。鶴丸にとって私は、いつまでも幼馴染のままなんだろう。平気なふりをして手を繋ぐなんて、もうとっくに出来ないくらい好きになっていること、鶴丸は知らないんだ。

 グラウンドを横切る。知らない学校だけど、常夜灯のもとでふんわりと浮かぶサッカーゴールやホームベースは親しげな気配を纏っている。懐かしいなあと話しながら鶴丸が向かったのは、夜のプールだ。無骨なコンクリートの段差を登って、フェンスにくっついた扉の鍵を開ける。慣れた手付きで私を引き込む仕草は、しなやかな猫みたいに見えた。

 ほんのりと明るいプールサイド、ざらざらとした地面は渇いている。夏休み中も水が張られたままなのか、風に触れた水音がてぷりと小さく鼓膜に跳ねた。

「泳ぐの……?」
「ん?、まあそれもいいが…プールの中をよく見てみるってのはどうだ?」

 視線を移した水面の向こうに、いくつかの影が揺らめいた気がした。なんだろう、近付いて覗き込む。

 薄暗がりに慣れた目が見つけたのは、星明かりの中を泳ぐ金魚の群れだった。ひとつ捉えたらふわと視界が明るく広がって見える。濃紺の中を幾つもの赤が踊るように翻り、火花みたいな鱗が光っては散る。幻想的な光景に、夢でも見ているような気持ちになる。

「驚いた、って顔だな。きみに見せたかったんだ」
「…きれい、でもなんで?」
「夏祭りの展示で使うんだと。なかなかの大仕掛けだよなあ」

 言いながら裸足になった鶴丸はプールサイドに座って「きみもおいで」と隣をたたく。彼に習ってサンダルを脱いで、つま先で水面をかき混ぜた。ちゃぷんと割れた水の向こうで、花火みたいに金魚がぱっと広がり泳ぐ。星空に足をつけているような、不思議な光景がおもしろくて、ちゃぷちゃぷと遊んでいたら、鶴丸がすぐ隣で笑う。

「きみが楽しそうでなによりだ」

 夜風に押されるようにすこし上にあるその顔を見た。水に投げ出した足に、肘をついた鶴丸が悪戯を成功させた子どもみたいな目をして、こちらを見ている。その表情だけで、私の胸は好きが詰まってぎゅうっと狭くなる。ほうと溢れそうなため息を、飲み込んで頷いた。

「連れてきてくれてありがとう」

 足を浸した夏の夜空を、ひらひらと金魚が飛んでいる。さっきまでタオルケットに包まって、くすぶっていた陰鬱な気持ちは嘘のように晴れている。今なら判然としない不安を言葉にできそうな気がした。私は何にもなれなくて、次の春が来たとき、どこへ行けばいいのかもわからない。でも、鶴丸が居る、それだけですべて大丈夫だと思えた。

「ねえ、これからも、こんなふうに連れ出してくれる?」

 冗談を装って訊ねてみたら、急にどうしたんだ、と明るく笑い飛ばしてくれると思っていた。だけど、違った。鶴丸の横顔から、笑顔がふ、と消える。それから、足先に絡んでいた視線がこちらを向いた。いつになく真面目な顔を月明かりが照らすから、目が逸らせない。

「……そうだな、きみがこれから何になっても、俺はきみのことが好きだ」

 口をむんずと結んだ、鶴丸のこんな固い表情を初めて見た。ずっと彼を見ていたから、私はいまの「好き」の意味を取り違えたりはしない。

 身体のまんなかで燃えている同じ色をした炎が、ちり、と揺れる。胸が焼けそうにあつい。ぼうと立ち上がる熱が頬を染めて、耳の端まで、溶けてしまいそうになる。

 逸らされないままの視線は、とろとろ、瞳から蜂蜜が注がれるみたいに甘い。夜空の下で隠せないくらい、首まで真っ赤にしている鶴丸のことを、笑っちゃうほど愛おしいと思った。

 小指が重なって、右手が握り込まれる。濡れたままの足の甲をすべる水滴がくっついて落ちるような自然な仕草で、捕われてしまう。心臓が鳴っているみたい震える私の手を、鶴丸の指がゆっくりと締めつける。それだけで全てを知って、隠したはずの想いは簡単にあばかれてしまう。飲み込んだ恋が、こぼれるように声になる。

「……私も、好き」

 涙が落ちるみたいな響きで転がった、すき、に鶴丸がぱあっと笑う。長い潜水から戻るように、おおきく息を吐き出した。

「はあぁ、……こんなにも緊張したのは生まれて初めてだ」
「…ふふ、そうだね。あんな変な顔初めて見た」
「きみだって耳まで真っ赤だろう」
「鶴丸は首まで赤いよ」

 言い合いながら、ふたりして笑った。これからもよろしくね、と紡いだ声は届いていただろうか、額を寄せた鶴丸が、唇をくっつけて、また照れて、右肩に擦り寄ってくる。

「はぁー、……好きだ」
「あはは、はいはい」
「きみ、釣った魚にも餌をやれよ」
「釣ったのは鶴丸のほうじゃないの?」

 どこかへ行きたい、何かになりたい。どこかへ行かなくちゃならない、何かにならなくちゃいけない。ねえ、私たちはさあ、この熱を持て余したまま、いつまでも子どものような気持ちで大人になりたい。きっといつまでだって、ほんとうになりたい姿なんて分からなくていい。行き場のない、やり場のない想いを、いつも大切に抱いて、篝火のように掲げてさ、世間の決まりごとだとかセンスのない噂話なんかに踏まれて殴られても、好きなひとを好きでいるだけで、馬鹿みたいに幸せだね、って毎日を照らして歩いていくんだ。

 水面を蹴り上げる。金魚が驚いて跳ねる。上がった水飛沫のひとつが宇宙にくっついて、新しい星になりそうなほど、夜が近くにある。握られた右手をほどいて、それからちゃんと繋ぎ直したら、鶴丸が幸せだ、と言って笑った。

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