一期と薬研と健康診断

ぐわんと目がくらむ。
ぼやりと世界が程遠くなって、視界が奪われ、重力が重くなる。

貧血だ。

力が抜ける。膝が体重を支えない。バランスを崩して、ぺたりと地面に手を付いた。ひどく気分が悪い。

「主!大丈夫ですか!?」
いち早く駆け寄ってきたのは一期一振だ。
すごく慌てているのに、所作のひとつひとつが品を損ねないのは、彼ぐらいのものだろう。
なまえは大丈夫だ、と彼を手で制す。おもい息しか出ない。

一期一振は、傍にしゃがみ込むと、身を起こして座り込んでいるなまえの頬に手を当て、顔をまじまじと見つめる。
血の気が引いた頬はとても白い。医学の心得がない彼にさえ、なまえの不調が見て取れた。
なまえは、やおら座り込む女性の頬を救い上げる一期は、とても絵になるのだろうと霞む頭で思った。
一期の真摯な眼差しは、どこか怒りを孕んでいるようにみえる。なまえには、その理由が分からない。

一期一振は、次いで地面に付いたなまえの手のひらを、小鳥を拾うようにすくい上げた。
ぱらぱらと砂を払う。ひとつひとつの動作は壊れ物を扱うようにとても優しいのに、終始無言だ。

耐えかねて、なまえが口を開く。
「…あの、ありがとう。」
一期はぎらり、鋭くなりそうな言葉じりをなんとか噛み砕くように答える。
「どうしてです。こんなになるまで無理をなさるなんて。」痛みをこらえるような表情をしている。

その声色を聞いて、怒ってしまうほど心配している彼の気持ちに、なまえはやっと気がついた。
「…ごめん。」
一期からは、はあ。というため息が返ってくる。みだれる心を逃がそうとするように、それは重く空気を震わせた。

いち兄は、怒ると怖い。
後藤と信濃がまことしやかに言っていたのを、うそだぁ、と笑い飛ばしていたことが、遠い過去に思えた。
いち兄は、怒ると怖い。事実だった。

一期一振、普段は物腰柔らかな王子然りとした態度であり、あまり感情の起伏が見えないのだ。
いまもなお、見せまいとしている努力を貫通して、漂う空気に竦んでしまう。

ちらりと上げた視線で、なまえが分かりやすく怯んでいるのを捉えても、一期は態度を変えない。
彼はどれだけなまえを大切に思っているのか、それをどうしても分かって欲しかった。

なまえの体からふわりと力が抜けて、地面にひれ伏すところを見たとき、一期は冷えた手ではらわたを掻き回されるような心地がした。
最悪の想像。
こんな思いは、二度と御免だ。

「お説教は後です。薬研のところへ参りましょう。」淡々と告げられる言葉に、拒否権はない。なまえは貧血を起こした自分の体をつねりたくなった。
「はい…。」
「素直でよろしい。ではそのまま、私の首に腕を回してください。」
「え…。」
「なにか不都合でもございますかな?」
にこやかな笑み。なのにどうしてか、ぜんぜん笑ってるように見えない。
ひええ。となまえは震えた。
「ございません…。」

膝を付いた一期の腕が腰に回る。脇の下に肩が入り、腕は自然と彼の首後ろへ。引き上げられた両膝の下を、もう一方の腕がくぐり、胸元へと引き寄せられた。体は転がり込むように、自ずと一期の懐へ。

ダンスのリードが上手い人は、相手が初心者であってもなんなく踊ることができると言うが、一期はそれらしい。無理なく無駄なく、体運びが行われる。
腕を回せ、なんて言われなくても、腕を回してしまうのが一番自然な格好になるような抱き方だ。

ふわりと体が浮く。自分の重さを忘れてしまいそうなほど、軽やかに。
「そのまま大人しくしていてください。」
当方大人しくするより他に選択肢はございません。なんて口が裂けても言えない。
こんな空気でなくても、この距離感、この体制で軽口を叩ける余裕などなまえには無かった。ついまじまじと端正な横顔を眺めてしまう。

さくさくと歩を進める最中、突然静かになったなまえに、一期はちらりと視線を送る。
ぽうとこちらを見つめる視線と不意に目があった。そう見つめられると落ち着かない。
淡々とした態度を崩さぬように努めて一期は問いかけた。
「私の顔になにか付いておりますか?」
言われてなまえははっとする。こうもじろじろと人の顔みるのは、さすがに不躾だったと反省した。
「ご、ごめん。一期とこんなに近いの初めてやなぁと思ってたら、見惚れてた。」へへ、とごまかすように笑う。

次の瞬間に、ぐわん。と抱かれた体が大きくぶれた。
「えっなに!?」
「…見ないで下さい。」
…これはまたわかりやすい。

見ないでと言われると見てしまうのが人間のさがだ。
なんせ首に腕を回すように言われたのだから不可抗力である。見てるのではなく見えてしまうんだから仕方ない。
一期一振りは必死で顔を背けているが、きちんと整えられた髪から覗く耳は真っ赤だ。

さっきまでの張り詰めた空気はもうない。
相手が照れると、強気になれるのは何故だろう。仕返し、とばかりになまえは追い打ちをかける。
「照れてるん?あはは、かーわいい。自分から抱っこしたのに。」
さっきまですっごく怖かったのだ。心の中の小夜左文字が、復讐だよ。と囁いた。

頬に手を添えて、こちらへ向けさせる。素直に従ってくれる、お兄ちゃんはやっぱり優しい。
「赤い。こんないち兄は初めて見る。」
赤らんだ頬、うるりと潤んで逸らされる瞳。薄ぼんやりした頭で、綺麗だな、とだけ思った。

「からかうのはお止めください、主。…身が持ちません。それに私はこう見えて、怒っているんですからね!」
さっきまでのつーんとした怒りではなく、いまのはぷんぷんという音が聞こえるような怒り方だ。
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫。」
そんなに気分も悪くない。きっと一時的なものだろう。寝ていれば治りそうだ。

一期はじっとりとした眼差しを向ける。どうやら大丈夫は受け入れてもらえないらしい。
「とにかく薬研の元へ参りますので。」
「まだ顔赤いけど、大丈夫?」
「もう!放っておいてください!」



がらり。
戸を開けると、薬研藤四郎が書物から顔を上げる。
「なんだいち兄、ついに主を攫ってきちまったのか?」
「さらわれた〜。」
「二人とも、怒りますよ。」
「ごめんなさい。」
「悪かった。…ってーと、そんな格好で俺っちになんの用だ?」

かくかくしかじか。
主が突然倒れてしまいうんぬん。
一期一振、少し話を盛ってしまうのは前の主の影響ですかな?
なまえはそんなに!?とかいやいやそれは言い過ぎ。という相槌に疲れてきた。

「本職には及ばねえが、真似ごとくらいなら出来るだろう。どれ大将、見てやるからこっちへ来い。」
「はーい。」
敷かれた座布団ごと薬研に近付く。一期一振は、なまえの斜め後ろで、保護者さながらその様子を見守っている。

薬研は着けていた手袋を外すと、両手で首に触れる。
流れる様におでこを引き寄せられた。
「熱は…ないか。」
首筋をするり、撫でるように滑る指先がくすぐったくて、なまえは肩を震わせた。
「こそばい。」
「はは、大将は敏感だな。」

…このやりとり。
一期は兄として、保護者として口を出すか迷った。しかしなんと?別に診察しているだけといったらそれだけなのだが、いかがわしく聞こえてしまうのは、私の考え過ぎなのでしょうか?

そうこうしているうちに、薬研は膝立ちになって、正座しているなまえの太腿にまたがるようにして顔を上から覗き込む。
ち、ちちちち近いですぞ薬研!
あわわ、と焦る一期のことなどまったく気にしていない。さすが薬研兄貴、豪胆な男だ。

「大将、もっと近くで顔を見せてくれ。」
頬を掴んで、顔を引き上げられる。
銀縁の眼鏡越しに、薄紫の瞳が目の奥を探る。さらさらと、耳に掛けられていた髪が柳のように流れ落ちる。
頬に添えられた親指で、ぺろんと下瞼をまくられた。自分の顔を想像して、なまえは吹き出してしまう。
「ふふ、変な顔恥ずかしい。」
「はは、ちゃーんと可愛いから安心しな。」
頬の拘束が解けたとおもうと、側頭部をがっつり掴まれる。耳の後ろに指が入って、頭を支えられたら、逆の手の中指が唇を柔くなぞる。ふにふにと弾力を確かめられる。これもまたこそばゆい。

正座している一期は、ごくりと唾を飲み込んだ。
違うと分かっていても、違うと分かっていればいるほど、心が乱される。
見てはいけないものを見ているような気になって、そんなことはないとふるりと首を振るが、じわじわと頬に集まりだした熱は逃げない。新手の拷問かもしれなかった。

「…こいつは貧血だな。」
「やっぱり。」
「念のため心音も聞いとくか?」
「聞けるん!?すごい!」
「まあ形だけな。」

言いながら、薬研はおもむろになまえの腰に手を回す。
「帯を緩めるぞ。大将、襟首を抑えててくれ。」
「うん。」
ふわ、と浴衣の帯の結び目がゆるんでお腹の周りに風が入ってくる。
緩めた帯を男らしく固結びで仮止めして、薬研は聴診器を取り出した。さすが薬研藤四郎。本丸内でも一二を荒らそうワイルドさである。一切の戸惑いが無い。

寛げた胸元に、聴診器が触れる。
「つっめた…。」
「悪いな、ちょっとの辛抱だ。」
言いながら手際良く、手を進める。
鎖骨の下、胸の上。膨らみを避けて、脇下の開きから差し込んだ手で、胸の下、腹の上。

ひたひたと当たる金属は冷えていて、触れられるたびに体が跳ねる。
一期は逸らした視線の片隅で、その様子を確実に捉えてしまう。
見たくないから目を逸らしたのに、意識は視界の隅のぼやけた場所に集中している。見るのか見やんのかどっちやねん。

まっすぐに見ないから、変な想像をしてしまうのかもしれない。
一期一振、しかと見よ、治療の時間だ。

「異常なしだ。しっかり飯食って、ゆっくり寝りゃ治るだろ。よく頑張ったな、たいしょう。」
「はー。冷たかった。」
「膝ついたって言ってたが、外傷はないか?」
「たぶん大丈夫。」
「たぶんってなぁ。大将、嫁入り前の体に傷をつけるような真似は感心しないぜ。ほら、見せな。」
「うーん、痛いとこないけどなぁ。」

正座を崩して、薬研の方へ足を伸ばして座る。
「パンツ見えねえようにしとけよ。」
悪戯に片眉を上げて、にやりと笑う。
「俺っちとしては役得だが、いち兄の説教は長いぜ?」

薬研から一期へと向けられる視線に引っ張られるように、なまえが振り返ると、彼はもうぎりぎりと歯を食いしばってこちらを凝視している。
その形相たるや、もはやモンスターペアレンツのそれである。
はしたないこととか嫌いそうだもんな。
「全力で隠します!」
「ああ、その意気だ。」

足の横に移動した薬研は、なまえの左足の踵を手のひらに乗せた。
するすると踵が引き寄せられて、足がゆっくりと曲げられる。浴衣の裾の合わせから、膝が覗くと、そのまましゅるり、布が滑って、太ももが露わになる。
流れた布はなまえの手に抑えられて、腿の付け根でたわんでいる。

もはやパンツ云々ではないと一期は思った。普段あまり目にすることのない白い肌は、障子越しの光を受けて生々しく光っている。主たるものがこうも家臣に肌を晒してはいけない。それがたとえ弟だろうと、たとえまっとうな怪我の治療であろうとも。

薬研、そう足を持ち上げるのはやめなさい。と言葉に仕掛けたとき。
「見たところ外傷は無さそうだな。」
「いち兄話盛るねんもん。」
「はは、そんだけ主が大事だってことだ。さて、俺は燭台切に精のつくもんでも頼んでくるわ。いち兄、着付けは頼んだぜ。」

…はて?いま弟はなんと言ったか。
着付けを?頼む??
「薬研!?」
「悪いな、雅なことはよくわからん。俺は脱がせる専門だ。」
「ハードボイルドかっこいい!」
「変な言い方をするのはやめなさい!」

じゃあな、と薬研は行ってしまった。
「診察ありがとうー。」
なまえが呑気にのたまう隣で、一期一振は途方に暮れる。どうしたものか。着付け?そりゃあ出来ますが。
というか主はまだ一人で着物を着れないのか!?この男所帯で!?だったら毎日誰かが着せていたことになる。一体誰が!?

百面相をしている一期は、いったいどうしてしまったんだろう。すぐ前まで移動しても一向にこちらに気付く気配がない。しばらく様子を伺っていたなまえだったが、しびれを切らして話しかける。
「いち兄?お願いします。」
頭上から降ってきた声に、はっと一期は顔を上げ、た、と思ったら逸らしてしまった。

それもそうだ。合わせはは引きよせられて、肌こそ隠れているものの、帯が仕事をしていない、寝起きのように危うい浴衣姿である。
いまやなまえは刀剣たちを家族のように思っているので、この程度じゃ恥じらわない。慣れとは恐ろしい。パーソナルスペースの矮小化は深刻だ。

かたや一期一振、彼は品行方正の代名詞のような男である。

「適当でいいから帯結んで。」
一期は俯いて、顔に熱が集まるのを覚えながら問う。
「主は…その…平気、なのですか。」
なまえは、はてと首を傾げる。何がだろう?ああ、貧血のことか。
「うん?もう大丈夫。さすがに飛んだり跳ねたりは出来なそうやけど。」

違う。そうではない。
一期は言おうか逡巡する。これを問うことは、自分の心の奥を明らかにするということだ。軽蔑、されたりしないだろうか。

「心配してくれてありがとう。」
降ってきたのは、そんな思いも霧散させるような声。一期一振は、面食らって顔を上げた。
「やっと目あった。」
にこにこと嬉しそうになまえが笑う。

なまえはそのまま一期一振りの目を覗き込む。ふむ。
「なんか、言おうか迷ってる?」

いち兄はどこか自分に対して遠慮しているところがあるとなまえは常々感じていた。

怒ったところも先ほど初めて見たし、素の部分があまり見えないのだ。もっとも、丁寧な物腰や家臣として引いた一線も、彼の性格そのものなのだろうと思う。

だけど、やっぱり寂しい。
主という立場は、思いのほか孤独だ。
大切にされている、ということは重々承知している。
彼らと同じ傷を負いたいと思うことは、許されない。
だからせめて、痛いことは痛いと言って欲しいのだ。なんなら、かゆいところはかゆいと言うぐらいの我儘だって聴きたい。

「どしたん?なんでも言っていいよ。」
この言葉を受けて、一期一振はすとんと腹が据わった。諭されて、秘密を明かす子供の気持ちがわかった。
「…主は、もうすこし、危機感を持つべきです。」
「危機感って?」
「あなたは仮にも女性なのですから、その、家臣といえど、男…の前でそう、そのような姿になられるのは、感心致しません…!」
言った。言い切ったぞ一期一振。

「…そういうことかあ!」
わはは、となまえは笑いだしてしまう。壁だと思っていたよそよそしさは遠慮や敬遠ではなく、いかにも一期らしい、高潔さだった。

「なるほど。一期は私のこと女やと思ってくれてるんや。」
「違うのですか!?」
「いや違わんけど!!」
天然なのか一期一振。どうみても女だろう。

「私は一期のことも、みんなのことも、家族みたいに思ってるから、ちょっと遠慮とか恥じらいが薄れてたんやと思う。」
「遠慮などと…!主が遠慮をする必要は無いのですが、その、よこしまな視線を送る輩が居ないとも限らないと知っていて欲しいのです。」
「よこしまな視線?」
「いえ、決してこの本丸にそのような目で主を見る刀はおりませんが、念には念を、といいますか、理性が決壊する可能性も、ありますので。」
話していて、どんどん尻すぼみになっていく。これじゃあまるで、自分が主をそういう眼差しで見ていると言ってるようなものだ。

俯いてしまった一期一振に合わせて、なまえは座り込んだ。
「わかった。心配してくれてありがとう。ふふ、やっぱりいち兄は優しいなぁ。」
「いえ…わたくしは優しくありません。」
「優しいよ。優しくて、正直で、信頼に値する。」
不安に陰っていた金色の瞳が、綺麗な光を取り戻す。汚れなき、その魂の光。
その光を見届けて、なまえは口を開く。
「よし、じゃあ着付けよろしく。」

堂々と言ってのけたなまえに、一期は取り繕うこともなく反論する。
「なっ!なにもわかっていないではないですか!」
「理性が決壊しそうなん?」
「わたくしはそんなこと致しません!」
「だからお願いする。」
「何故そうなるのです。」
「じゃあ他の人に頼んでくる。」
「そんな姿で部屋の外に出るおつもりですか!許しません!」
「はいはい、じゃあお願いします。」
「くっ…!」

自分はこの本丸の主だけれど、右を向け、と言えば右を向くような、そんな関係にはなりたくなかった。
なまえは、全員の目で道を探して、とやかく言い合いながら、歩いて行きたいのだ。間違った道を行こうとするときは、全力で立ちはだかって欲しい。

優しいみんなのお兄ちゃんは、目を痛いぐらいにつむって、顔を真っ赤にしながら器用に帯を締めてくれる。

叱られて嬉しいなんて、大人になったものだ。

なまえは、彼らの知らない一面にふれるたび、心にひとつ灯がともるように感じる。
ひとつ知って、また知って、どんどん明るい方へ向かっているような気がした。

貧血も悪くないなぁ。
そんなこと、息までとめて着付けをしてくれるような、優しく初心な彼の前で言えるはずもないけれど。



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