かごめかごめ
監査二日目。出陣への同行を終えた山姥切長義は確信する。やはり、この本丸の刀は、なんらかの理由で顕現が解けてしまうのだと。
出陣した第一部隊のうち、鯰尾藤四郎と小夜左文字が、またも長義の目の前で刀の姿に戻った。
部隊長である山姥切国広が、彼らの刀身を保護して持ち帰り、敵の本陣を討つ前に撤退。当然のように、結果は敗北だった。
本丸へと帰還し、黄昏に染まる本丸の廊下を審神者の自室へと案内されながら長義は思案する。
かつて、戦況が大きく不利に傾いた時期に、半ば無理やり審神者に押し上げられた者たちが居るという噂を耳にしたことがある。
ともすれば、この本丸の主である彼女もそのうちの一人なのかもしれない。
敗北に終わった出陣だったが、彼女の采配は優れたものだった。
決して深追いはせずに、四振りとなった刀剣男士が敵を退けて、本丸への帰還指示が出されるタイミングも完璧だった。
おそらくは、このような状況に慣れているのだろうと推測できる。
あとは練度の問題……か。
今回の出陣では山姥切国広の実力が抜きんでていた。この事実より、一度刀身へ戻った付喪神の練度はリセットされるとみて間違いなさそうだ。
いくら采配が優れていたとしても、顕現したばかりの刀剣では相手にならない敵が居る。
この本丸の初期刀である山姥切国広だけは顕現が解けていないらしい。
この本丸の主が審神者として着任し、山姥切国広を初めて降ろした時に、それまで彼女の体に蓄積されていた霊力を注ぎ切ったのかもしれない。
あとは残滓のような霊力の使い回しとなっているんだろう。力の回復を待たずに、刀の顕現をし続けたと思われる。
政府が無理な進軍を強いていたのならば、データを書き換えてこの本丸の実情を隠蔽するのも合点がいく。
このような事態に陥りながらも、未だ刀剣破壊が起きていないことのほうが奇跡に近い。
どうしたものか、と長義は考えを巡らす。監査官として本丸の現状を時の政府本部へと報告したところで事態が好転するとは思えない。
数値を改竄しているのは他ならぬ政府なのだ。もしもこの秘密が明るみに出たら、彼女はもう審神者では居られないだろう。監査部や外部機関の目が届かない場所で、利用され続ける可能性もある。
「……着いたぞ。」
山姥切国広が淡々とした声で告げる。他の部屋とは造りの違う襖の向こうに、この本丸の主である彼女が居る。
襖越しに、山姥切国広が声をかけた。
「監査官を連れてきた。入るぞ。」
どうぞ、と返事があって襖が開かれる。長義を室内へ通したあと、山姥切国広は一礼ののち襖を締めて退室した。
長義は促されるまま、審神者と向き合う形で腰をおろす。密かに見つめていた眼差しが、まっすぐ自分に向けられているこの瞬間がひどく非現実的なものに思えた。
部屋に満ちる夕陽。紅茶が注がれたように褐色の光に満たされた室内で、口火を切ったのは彼女のほうだった。
「この本丸の現状は、あなたが見たもので相違ないでしょう。……いったい、どうなさるおつもりですか?」
世を達観したような、大人びた物言いだ。刀剣を励起させては失い、忘れられ、また繰り返して、彼女はどんな思いで今日まで審神者を続けてきたのだろう。薄い肩に、背負ってきた業はどれほどのものか計り知れない。
「俺が聞きたいことはひとつだけだ。このような状況の本丸から逃げ出そうとは思わなかったのか。……なぜ、審神者を続けている?」
静まりかえった部屋の中に、長義の声がぽつ、と落ちる。やがてゆるりとした波紋になって、審神者の瞳をそっと揺らした。水面の葉が揺蕩うような、なんとも儚い眼差し。それもほんの僅かな間だけだった。瞬きのあと、底知れぬ強さを持った視線が逸れることなく長義を見つめる。
「私が審神者を続けているのは、彼らのことが大切だからです。私だけが逃げ出すなんて、恥ずかしい真似はしたくありません。」
付喪神を道具だと割りきれないまま、誰にも縋らないまま、彼女はここまで歩いてきた。刀剣破壊がが未だ起きていない、それは一重に、この心根が齎したものだったのだ。
彼女の一言で、長義はすとんと決心した。
相応しい本丸、なんてもったいぶったところで、数値化された戦績など所詮はなんとでも取り繕える表面上のものだ。
それよりも、この人と決めた主のために、己を振るえることの方が、ずっと価値がある。
心を動かすのは、揺さぶるのは、いつだってまた別の、誰かの心だ。元は刀だったとしても、胸の音がうるさいこの身体には、いま確かに心が在る。ただどうしようもなく、あらがうことのできない強さで、心が在った。
「俺がこの本丸の刀剣男士として着任する。監査官として、顕現が解けない刀が一振りでも多く居た方がいいと判断した。しばらくは山姥切国広と二名で任務を遂行し、あなたには霊力を温存していただきたい。……その先のことは、三人で話し合って決めていけたらいいと考えている。」
ひと息に言い切って、いかがかな?と問いかけた時の、花が綻ぶような彼女の笑みが、長義はずっと忘れられないままでいる。
こんなにも守りたいと思えるものがあるなんて、自分はなんて幸福なんだろう、と思ったのだ。
………たしかに、思ったのだ。
が。
「…これはいったい、どういうことかな?」
異動願いを提出し、手続きを終えた長義があらためて本丸の表門を潜ったとき、ずらりと並ぶ刀剣男士たちの花道ができていた。
『ようこそ、本丸へ!!!!』と書かれた横断幕と、総勢八十名以上がそれぞれに投げつけてくる紙吹雪。
監査時の奇妙な静けさは霧散…どころか爆発四散して、お祭り騒ぎである。
長義は何が起きているのか理解できないまま、錚々たる刀剣男士たちの間を歩かされる。背中を叩かれ、握手を求められ、激励の言葉をかけられて、拍手喝采の中、なにがなんだか分からなかった。間違って別の本丸に来てしまったのかと疑うほど。
ただ戸惑うばかりの長義を、ぴょこんとアホ毛を遊ばせた鯰尾藤四郎が人垣の中から呼び止める。傍には小夜左文字も一緒だった。忘れもしない、出陣先で刀身へ戻った二振りである。
「山姥切長義さーん!ねえどうでした?俺たちの演技、なかなかだったでしょう?」
「……弱いふりをするのは、難しかった。」
……えん、ぎ?
えんぎ……えんぎって、なんだそれは?
長義の頭の中で、え、ん、ぎ、という平仮名の三文字がふわふわと浮遊し、頭が空っぽになる。やがて、演技、と漢字を得て、なるほど演技か、とようやく意味を理解した。
けれど意味を理解してすぐ、また見失う。
山姥切長義は生まれて初めて、ひどく混乱している。
演技だったというのか?
だとすれば、いったい、どこから?
「……どう、いうことなのか、説明してくれないかな?」
長義の問いかけに進み出たのは前田藤四郎だった。ごりごりに正気度を削っていった張本人である。
少々お待ちくださいと言って、丁寧な調子で袖をたくし上げたところに、見慣れぬ墨文字があった。
「こちらは主君の術式です。通常は懐刀として供する時に、短刀と脇差にのみ使用されるのですが……このような使い方はとても新鮮でした。」
短刀と、脇差……そう言われて鯰尾、小夜、前田の顔を順に見た。それから心当たりに引っ張られるようにして、やや振り返って鶴丸国永と鶯丸に視線をやる。最高の笑顔で手を振り返されたから見なかったことにした。
「……いや、新鮮だとかそういう次元の話じゃないんだが。」
「それは…!驚いていただけたようですね。主君の命を全うできたこと、懐刀として誇りに思います!」
だれも褒めてないんだよ!屈託のない笑顔がひたすら眩しい前田藤四郎に長義は叫び出しそうになった。
嘘だと分かった今でも、ふらりと刀身が落ちる様を思い出すと背筋が薄ら寒い。
まんまと長義の思考を誘導した三振りはハイタッチをしてはしゃいでいる。
頭を抱えたくなった長義の元へ、山姥切国広が現れた。
「前田が刀に戻ったときのあんたの反応は傑作だった。国広随一の傑作である俺が認める。」
「くそ、くそっ…くそ…!偽物のくせに…!」
「写しは、偽物とは違う。名前は俺たちの物語のひとつにすぎない。」
写しのくせに追い討ちをかけてくる偽物くんに苛立ちが留まることを知らない。……まて?いま何と言った?
「は…?もしかしてお前…修行を終えているのか?」
「当然だ。俺は主のための傑作だからな。彼女の頼みなら、なんだって引き受けるさ。」
「だからといって嘘をついていいことにはならないんだよ…!」
「俺はひとつも嘘は言ってない。」
「あの書類はお前が用意したものだろう?」
「さあ、どうだったかな。」
のらりくらりとキリがない。長義もだんだん疲れて馬鹿らしくなってきた。もう記憶を辿るのもしんどい。
あの妙な戦績表だけが偽物で、政府で管理されているこの本丸の情報は、はじめから嘘偽りのない事実だったのだ。
時の政府によるデータ改竄や異常な本丸の隠蔽など、最初から起こっていない。
紙切れ一枚に踊らされて、監査に赴き、思考が先走ってまんまと騙されてしまった。
なまじ頭の回転が早く優秀なせいで、トントン拍子に筋道のとおった推論を作り上げてしまったのである。
やるせない呆れや怒りが、はあー、と長いため息になって出ていく。もうクソもでない。
「監査対象の本丸は監査官が選出すると聞き及んでいたからな。あんたがこの本丸を選ぶ後押しになったんじゃないか。」
「……待て。後押し、という言い方が引っかかるな。俺がもともとこの本丸を気にしていたかのような口振りだ。」
「安心しろ、主は気付いていない。あんたも男だ、こういうのは自分の口で言いたいだろうからな。」
「恩着せがましいね。偽物くんに恋愛事の後押しなどされてやる筋合いはこれっぽっちもないのだが。」
「……俺は恋愛の話などしていない。……ほう、そうか。らいくじゃなくてらぶなのか。」
「な……お前!謀ったな!!」
「いや、あんたが勝手に言い出したんだろ。」
やま!んば!というオノマトペがつきそうな具合に、仲良く言い合っていた二振りに審神者が歩み寄ってくる。
近侍である山姥切国広と目配せをして、手を一つ叩いた。彼女の視線を追った長義が悔しそうにしていたことは、言わないでおこう。
ぱん、という柏手ひとつで空気が張りを持つ。
「はい!じゃあ種明かしはこれでおわり。第一部隊は出陣!第二、第三、第四部隊は指示どおりに遠征お願いします。内番にあたってない子は長義くんの歓迎会の準備手伝ってー!」
男士たちから威勢のいい返事があがって、それぞれ自分たちの仕事へと戻っていく。
この一連のやりとりだけで、彼女の主としての裁量が見て取れた。昨日みた儚げな姿とはまるで別人だが、長義が見込んでいた采配の腕はやはり確かなものだった。こちらは人生を変えられたというのに、なんとまあ、呆気ない、切り替えの早いこと。
山姥切国広が出陣のためにこの場を去って、長義が主へと近付く。
どうしても聞いておきたいことがあった。
傍に寄ってきた長義に彼女は一縷の憂いも含まぬ瞳で、からりと笑いかけるのだから、女とはおそろしい生き物である。
「……こんなことをしてまで、山姥切長義を手に入れたかった理由はなんだ?…政府から与えられる機会を待つという選択肢はなかったのかな?」
ふ、わ、と風が吹いた。季節を連れる疾風。彼女は髪を遊ばせて、くすぐったそうに口を開いた。
「ほかの山姥切長義じゃなくて、あなたが欲しかったんだ。それだけ、理由なんてないよ。」
ごめんね?と笑った、その瞳がきらきらと眩しい。それから、あのときと違わぬ真っ直ぐな声で言う。
「私たちの本丸に、来てくれてありがとう。」
はじめから、この気持ちに嘘なんてひとつもなかったんだよ。
長義は数秒のあいだ立ち尽くす。こみ上げてくるあたたかな想いを、言葉に変えることが出来なかった。
騙されたというのに、嬉しいなんて。わからないばかりで持て余した人の心。揺れて、動いて、何かをせずにはいられなくって。そんな心が、ひだまりによく似た色を帯びる。
彼女の手のひらが、長義の手を掴んだ。
自分のよりもずっと小さな手が、こんなにも頼もしいなんて、笑えてしまうだろう。
つぶさないようにそっと握り返したら、足りないものなど無いような気がした。
本丸中の桜が祝福するように、首をもたげている。
「……そうでなくてはな。」
微笑んだ長義の背を押すように舞った花弁が、言葉にならなかった彼の胸の内を朗々と歌い上げる。
知り得ぬ心の果てまでも、鮮やかに春はやってくるのだった。