燕の唄


ぷわ、となにか温かい空気の膜が肌に触れる。一歩進んだら、そこには見知らぬ平野が広がっていた。

名前が後ろを振り返ると、今しがた通ってきたところに、ちょうど木造りの鳥居があった。ここを抜けてきたのかと思うと、いよいよ不思議現象を体感したというわくわく感が込み上げてくる。

あたりを見渡すと、向こうのほうに平家作りの和風の建築物が見えた。
おそらくあそこが待機場所だろうと、名前と鶴丸は歩き出す。

「ふおー、すごい。」
「なんだ、思ってたより驚かないんだな。」
「うん。だってここ未来やしなーって。」
「…そんなもんか?」
「ふふ、そんなもんそんなもん。」

ドラえもんの知識がなければSANチェック入ってても致し方ない状況だったのだが、ありがとう藤子F不二雄さん。

というかそんなことを言い出すと、そもそも体を得てこっち側に来ていることがめちゃくちゃ不思議現象なのだ。

名前は、自分が思っていたより早く、この状況に馴染んでいることに、自分自身で驚いていた。まだ本丸生活二泊目だというのに、どうしてかずっとこちらに居たような気さえする。

鶴丸国永はじめ、名前の本丸に顕現した付喪神である彼らがパーソナルスペースガン無視で接してくれるというのも、理由の一つとしてある。

しかし、あの時、『きみを連れてきたんだ』と鶴丸に言われたあのとき、強烈な非日常に頭をどちゃりと殴られたような感じがした。
とても冷静に、まるで他人事みたいに、状況を俯瞰している自分が居た。

ほんの数日前までの、名前にとって本来あるべき生活が今はもう、遠く遠くにある。

それはとても目まぐるしい速さで、遠ざかりつつあった。彼女に違和感さえ感じさせる間も無く、彼女の五感はこちら側に。そう、ただ居た。

好き、ということの引力は強烈だ。恋は盲目とはよく言ったものである。見て、触れて、聞いて、その全てで、好きなものと対峙する。名前の前向きで楽観的な性質が、とりあえず今を楽しめば?そう囁いて、この状況を俯瞰していた彼女自身に目隠しをする。

だからだろう。
名前は静かに決心していた。
鶴丸に、ちゃんと伝えておかねばと思ったのだった。

「そういえば、鶴丸。」
「ん?」

名前を見返す黄金色の瞳はとても美しい。
その美しさは、空とか海とか、そういう類のものだ。ただそこにあって、それだけで何かを育み、癒し、愛しむような美しさ。
そんな眼をして、鶴丸国永は名前を見る。

「連れてきてくれてありがとう。」

なんてことも無いように、はにかんだ顔をして言われた言葉に、鶴丸は息を詰めた。

どんがらがっしゃんと音をたてて鶴丸国永の思考がひと息に散らばる。連れてきたって、それは演練場に、じゃないだろう。ないよな。
いや………え?それってあれか?まさか俺がきみの名を隠したことを言っているのか?と。

「……は、え、それはなんだ?何の…?何を言ってるんだ、きみは?」
「あはは。いや、そういえば言ってなかったなーって思って。」

鶴丸国永の顔には、あまりにもわかりやすく困惑!と書かれていて名前は笑った。

「…言ってなかったって、きみなあ、いま…いや、はあ…かなわないな。」
「うん。死亡フラグ解体でうやむやになってたけど、ちゃんと伝えとこうと思って。」

ありがとう、と言ったのは、重傷になった鶴丸を見て一度は引っ込んでいた自らの気持ちだ。
いまさら蒸し返すのもいかがなものかと悩んだけれど、この機を逃すとやはり言いそびれてしまいそうだったから、一晩かけて、手渡しても大丈夫なように整理した。

繋ぎっぱなしになっている手をぎゅっと握り返して、大丈夫だよと言外に含んで名前は言葉を続ける。

「…だから、いま、うん。みんなと会えて楽しいから、ありがとうって鶴丸に言おうって思って。」
「…ああ、…うん。そう、か。」

鶴丸がゆうべ流した涙のわけは知らないし、聞くこともないけれど、鶴丸が自分のことを気にかけてくれていることを、名前はちゃんと感じとっていた。

名前はやおら話し出す。
ーー名前が思い出せなくて、怖くなったこと、でもそれも、好きなみんなを前にしたら、命をかけて戦ってくれることを思ったら、自分でも驚くほどすんなりと受け入れてしまえたこと。
一見すると重いそれらも、名前の喉を通ると羽が生えたように軽やかになる。
最初、自分の名前思い出されへん!ってなった時は、え、自分の名前やで?忘れることとかある?なにそれこわっ!って思ってんけどな…という語り口はとても軽く、それこそ名前を隠された張本人だとは思えない。…もちろんいい意味で。

重たいそれに引っ張られないように、重力をわざと無視して笑い話にしてしまう。吉本新喜劇のシナリオだって、ボケを抽出してしまえば割とシリアスなのと同じである。ともすればこれは関西に住まうものに、いにしえより受け継がれし英才教育なのかもしれなかった。

名前の話を聞いていくうちに、強張っていた鶴丸の表情から、徐々に力が抜けていく。鶴丸は、ぎちぎちと己に纏わりついていた冷たい霜が、朝日に溶けていくみたいに胸が暖かくなるのを感じた。

名前は信じている。軽やかに紡がれたそれは紛れもなく彼女の本音だった。鶴丸国永のことを、信じている。
鶴丸が欲しいというのなら、名前くらいあげてもいいとさえ思っている。だってきっと、大切にしてくれるだろうから。

信頼というのは言葉に乗って、きちんと相手に届くものだ。
ひとしきり話し終えて、名前はふうと息をついた。

「…というわけでした。…なに…?びっくりした?」
「いや、びっくりもしたが…きみが男前すぎてな。」

相変わらず笑ってこちらを見上げて問いかける名前の顔を見て、鶴丸国永は、ああ俺は、怖かったのかと気付いた。
怖さの正体は名前の幸せを願いながら、自分がとってしまった行動で彼女を害してしまうことだと思っていた。
だけど違った。
それよりもずっと怖かったのは、名前に畏れられ、ともすれば嫌われてしまうことだった。こんなにも、思っていたよりずっと、自分の中にある"好き"は大きかったらしい。

名前の言葉は鶴丸のその怖さを取り除いてあまりあるほどだった。頼もしくもあり、危なっかしいほどまっすぐで、心配にもなる。

人の心とはままならない、息が詰まるような想いだ。怖ささえ、覚えるほど。好きという気持ちには、上限がないのだろうか。

「男前ー?あはは、惚れてくれてもいいんやで?」
「もう惚れてる。」

「…は、え、」

鶴丸の心中をつゆ知らず、いつもの空気を取り戻そうと戯けてみせた名前だったが、まじめな顔をした鶴丸の思わぬ返事に、ぴしい!と固まった。
ついで、ぶわっと耳まで真っ赤になる。

愛おしそうに細めたまなじりで、鶴丸国永は名前を見る。

今度は名前が、困惑!と書いた文字を顔にくっつける番だった。
その表情にふっと吹き出すと、鶴丸は助け舟を出してやる。まだ、彼女を独り占めするつもりはない。

「ふ、今のきみは燕のようだな。」

紺色の服を着て、真っ赤な頬をして。
春に訪れる、幸せを運ぶ鳥みたいだ。

まじめな雰囲気を霧散させ、悪戯に笑んだ鶴丸を見て、名前も揶揄われたと受け取ることにした。

「はあー…もう!そんなん私も好きやで。鶴丸のことも、みんなのことも。」

「ああ、ありがとうな。」

まったくもう鶴丸はすぐからかう!とぷりぷり怒りながら言ってみせた名前に、鶴丸はほんの少しの寂しさに気付かないふりをして、それは嬉しそうに答えたのだった。

並んで歩く二人のあいだで、繋がれたままの手が幸せそうに揺れている。


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