しあわせと欲


水分を湛えた名前の瞳が、黒すぐり色に滲んでいる。蝋色の漆、よく磨かれた柘榴の実、カラスアゲハの鱗粉にも似た、光の溶けた黒色。

酔いを注いだ罪を忘れて、長谷部はそれに見惚れた。

端的に言うと、二人とも酔っている。

先ほど甘え倒した次郎太刀と太郎太刀はそれぞれ大の字で眠っている。手も足も、すごく長い。
名前を守るように囲っていた二対の城壁のような彼ら。この二振りが眠ってしまうほど飲むところを見たものは、いまだかつて一人しかいない。

大太刀会なるものが催されたとき、オレンジジュースで参戦していた蛍丸だけだ。石切丸?彼はお猪口一杯でへべれけになっちゃう系御神刀である。

次郎太刀と太郎太刀は夕餉のときからすでに呑んでいたということを差し引いても、どうやらこの本丸の長谷部は相当酒に強いらしい。

『あいつを酔い潰したいなら、三徹明けを狙うのが定石だ。』というのは、毎度飲み負かされる陸奥守に大倶利伽羅が送った助言である。とはいえ、そんな古龍討伐のような段取りを踏んで飲むなんてことは、まあ無いものだ。
三徹明けの酒盛りは、博多に"長谷部しゃんの強制シャットダウン"と名付けらていることからも、本丸みんなの思いやりが汲み取れる。

さて、いま現在へし切長谷部は、酔っているという自覚を持って名前と向き合っていた。

「主、あなたの目はとても綺麗ですね。」

いつもなら考えて、考えて、考えても言えないことのほうが多いのに、今ならすらすら言葉に出来てしまう。それが心地よくて、長谷部の表情は、へらりと緩む。ほころんだ建前の隙間から、屈託のない笑みがこぼれて、まるで自分じゃないみたいだった。

「あるじ、此度の戦運び、とてもご立派でした。」俺は、この本丸に顕現してからというもの云々。

褒め上戸長谷部、名前への賛辞がとまらない。
名前も満更でもないのか、にへらあ、とどこまで聞いているのか分からない笑顔で応えている。

「主の成長をお傍で見られるのが俺にとっての幸せなのですが、あるじはどうです?」

長谷部の瞳が瞬いた。
主と共に在りたいと願ってきた。長谷部にとって、共に在るということは、共に時を経るということだ。そして、人が時を経るということは、成長し、老いていくということだと彼はそう思っている。

頭で考えて話していない、柔らかな呂律がまわる。まっすぐな藤色の視線が、名前の夜闇のような瞳にすうっと差し込んだ。

「主はいま、幸せなのでしょうか?」

名前はほんのすこし目をまあるくして、それから、へへ、と照れるように笑った。
ちょいちょい、と手招きされる。
名前としては、机越しに身を乗り出してもらうだけでよかったのだけど、長谷部はいそいそとすぐそばに寄ってきて正座した。

近くに来た長谷部を撫でる。
最初に目が覚めたときと同じに、すこし硬い髪の感触が手のひらに伝わって、やはり同じように感動した。

「ふふ、会いたかった。ずーっとみんなのこと考えてた。こうしてるの、まだ、ゆめみたいやなーって思ってる。」

ふわふわと、笑いが込み上げてくるのがとまらない。

「みんなに会いたかったから、いまはすごく嬉しい。」

だけど幸せなのか?というまっすぐな問いに、すぐ答えるのは難しかった。
名前は長谷部のように、幸せの定義がよく分からないでいる。

「だから、」
瞬きの隙間で、ぱち、ぱちと火花が散るような目をして、笑うのだ。
「これからみんなと一緒に、もっと幸せになれたらいいな。」

そう言って、ぽすりと長谷部の頭の上、撫でる手をとめた。満足そうな名前の顔が、幸せをおそれない、勝気な笑みを浮かべる。

長谷部は込み上げる笑みを隠さず浮かべた。
頼られるとも違って頼もしい、この主の幸せのために、尽くそうと誓う。

「主命とあらば。」
頭を下げようとしたけれど、名前の目から視線を外すのが惜しくて、そのまま微笑み返した。嬉しそうな笑みが返ってくる。

長谷部右手を胸にあてて、彼女の言葉を心の奥、刻むようにしまった。



障子の外、廊下の壁に寄りかかっている影がひとつ。目を伏せて、そっと聞き耳を立てていた鶴丸国永が、ふ、と笑んだ。

『会いたかった、みんなに。』

名前の言葉を聞いても、自分のしたことを肯定するなんてことは、やはりできなかったが、ゆっくりと自分を締め付けていた糸がひとつ、解けた気がした。
その糸を辿るように感情を追って、解った。

名前が幸せで、笑って居られるなら、場所はどこだって良いのかもしれない。傍に居るのは誰だって良いのかもしれない。

できることなら、自分も傍に居たいけれど、それは絶対じゃなくても良い。譲れないのは、彼女の幸せそのものだけだった。

なるほど。そう解ったとき、心臓のあたりがぎゅうと痛んで、鶴丸国永は胸を押さえた。

なんだこれは、と未だに戸惑って、ああ、いま痛むのが心かと知る。名前が幸せならそれで良い。その気持ちに間違いはない。

だったらなぜ、こんなにも切ないのか。

心というのは自分のものなのに、時折分からなくなる。名前がこちらに来てから、自分の心は輪を掛けてややこしくなっている。

「君が難しい顔をしてるなんて珍しいね。」

ふ、と掛けられた声に顔を上げたら、髭切が柔らかに笑んでいた。風呂上がりで乾かしたばかりの髪が、ふんわりと空気を孕んで、まるで月明かりのような色をしている。
その隙間から覗く双眼は、声色に似つかわしくない鋭さで、鶴丸を見ていた。

「…髭切か。足音を立てないのは君たち兄弟の癖かい?」

「ふふ、まあね。…ねえ、君は何をそんなに悩んでるの?」

「いや、心ってのは難解だな、と考えていただけだ。」

悩みというほどのものじゃない。言外に含んで、笑って見せた。
ふうん。と微笑み返した髭切は、名前がいる部屋にちら、と目をやって、それからまた鶴丸を見た。

「そうかな?…僕は、もっと素直に、欲に従ってもいいと思うよ?」

鶴丸は、『げ。』と言う顔になる。
髭切は妙なところで鋭い。その上、微笑みの中に隠れた本心は読みづらくって厄介だ。

本丸にいる刀剣男士たちの中には、相手の心の機微を汲むのが得意な者も多いが、髭切は圧倒的に"汲ませない"タイプだ。鶯丸とよく似ている。

空中を漂う羽や綿毛のように、掴みどころがない。
重力を真っ向から受けないような、不思議な軽やかさがあるから、そう見えるのかもしれない。

怪訝な顔をする鶴丸に対して髭切は、「ふふ。」と笑う。
図星の顔だね。
髭切は面白いことが好きなのだ。
いつも飄々としている鶴丸国永が変なところで思慮深いのは、見ていて面白い。風向きを映す水面のような、心の揺らぎは飽きない。

「素直ってのと、欲に従うってのは、ちと違うと思うがなあ…。」

「そう?欲しいものに手を伸ばさなきゃ、何も変わらないままでしょ。人の世が変わってきたのだって、それぞれが心の欲に従ったからじゃない。」

人ってそういうものでしょう?君だって、良く知ってるはずだよ。

髭切の問いかけは、とても無邪気だ。混じり気がないぶんだけ、鋭かった。

「欲しいものを欲しいままにするのは、きっと、善でも悪でもない。仕方のないことなんだよ。」

「…そうだとしても、あの子は物じゃあないだろう。」

「ふふ、そんなこと、さすがにもう分かってるよ。人間だって、他との関わりのなかで生き方が変わるなんてよくあることだ。……少なくとも僕は、君のしたことが、悪いことだとは思わないよ。」

「君が誰かを諭すなんて珍しいな。…何が言いたいんだ?」

「言いたいことなんてないよ。…でも、そうだなあ。」

髭切はふ、と縁側の向こうに目をやった。
月が照っている。凪いだ池の水面に、月明かりが散らばっている。
瞬きの間に、すぐに形の変わるそれを、ずっと見ていられそうだな、と思った。波立つように心が震えて、やはり、人の身は面白いなあ、と笑って言った。

「…あの子をかえすくらいなら、僕にちょうだい。」

鶴丸の目が、にわかに見開かれて揺らぐ。それから、すう、と本音を探すように細められた。

髭切はその視線を受けてなお、にこやかに続ける。

「まあでも、僕はなまえを覚えるのが苦手だから、もしそうなったら…。たぶんもう、あの子に返してあげられないけれど。」

平安の刀はどいつもこいつもめちゃくちゃだな。自分のこと棚に上げて鶴丸国永は思った。眉間にぎゅっと皺が寄る。
嫌悪をあらわにした表情に、髭切は、ぷっと吹き出す。

「ふふ、なんてね。困ったでしょ?」

「…いったいなんなんだ。」

「大丈夫大丈夫。よこどりなんてしないよ。」

「当たり前だ。されてたまるか。」

「あはは、それが君の本心でしょ。」

鶴丸国永は、う、と言葉に詰まる。
あんなにも困難に思えていた自分の胸の内が、こんなにも簡単に暴かれてしまうとは。

髭切はというと、もう目の前の鶴丸には興味がないというように、つい、と視線を名前のいる部屋へ向けている。

「あの子は素直なのが好きみたいだから、平気平気。どーんと甘えちゃえばいいじゃない。」

言って、ずぱーん!と襖を開ける。
ええ、どういう風の吹き回しでそうなるのか。鶴丸は突っ込みたかったが、心情を表す端的な言葉が出てこなかった。関西弁が使えたら、開けんのかい!と言ってたところだ。

「やあやあこれなるは源氏の重宝、髭切だよ。こっちの白いのは、…えーっと」

「鶴丸国永だ…。」

こっちは黒猫のジジ。という自己紹介が浮かんだ、名前が振り向く。

「おー、ふたりともいらっしゃい。一緒に飲む?」

そうして微笑まれるだけで、不穏な思考はすっかり凪いでしまう。
鶴丸国永も、細かいことはいいか。と思ってしまって、それが隣にいる髭切の口癖なのが可笑しかった。
かなわないなあ、と誰にともなく苦笑いを零して、名前の傍に座るのだった。




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