香り立つ灯火

「……………っえ?」

思っていた『え』のうち、100分の1がやっと声になって出た。
このタイミングでの平安ジョークはさすがの名前もレシーブできない。
おじいちゃんと呼んでいたことを、悔い改める必要は微塵も無かった。

あまりの突拍子の無さに、政府の狐もぽかんとしている。

ボケなのか、ガチボケなのか。
三日月宗近のキャラはまだ名前の中で固まりきっていない。神々しさを感じた仕草は、なんだったんだ。
さすが三日月。計り知れない。

呆気にとられた名前を他所に、三日月は彼女の両手を拾ってぎゅうと握った。名前が反射的に一歩後ずさると、少し痛そうな顔をして、三日月が開いた距離を詰める。

三日月の痛みをこらえたような表情に、名前の胸まで痛んで、もう彼女はそこから動けなくなった。

戸惑い、探るような眼差しの名前に対して、三日月はにこにこと、無邪気な笑顔を浮かべる。その笑顔は、『北風と太陽』に出てくる太陽のようだった。月だけど。

はたから見ている刀剣男士はひえっと息を詰めた。引きで見たときの、三日月の"無碍にしてくれるな圧力"は相当のものである。

肝の据わり方、押しの強さ、ことそれを感じさせない身のこなしにおいて三日月宗近の右に出るものは居ない。
獅子王を筆頭に、頼んだぜ…!じっちゃん…!!という空気だ。

結んだ両手が、三日月の手のひらに包まれるようにして、繋ぎ直される。振りほどくことなんて到底出来ないほどの、途方もない優しさで。

「主、今日の夕餉は皆で揃って食べるという約束だ。そうだろう?」

ごく普通の話をするように、三日月が語りかける。政府の狐の気配や眼差しは穏やかな声に遮られて、遠くなる。
物理的にもしれっと狐と名前の間に割り込む。しゃらり、袖の房飾りが狐の顔にぺしりとかかるのも御構いなしだ。
口を開きかけた狐も、悪気なくほけほけしている三日月を叱れない。おじじは得なのである。

春霞みの空はゆったりと暮れて、橙の空にはいつのまにか、のんびりと漕ぎ出した船のように三日月が浮かんでいた。

「俺は主が好きだ。主と一緒に飯を食いたい。いやぁ、人の身は不思議だな。好いている者と共に食う飯は美味い。」

三日月が出陣前に言っていた約束とは、どうやら夜ごはんのことだったらしい。
皆で揃って食卓を囲む、三日月宗近はあの時間が大好きだった。

温かな湯気の匂いを嗅いだら、へとへとになった体から、いっそう力が抜けて、ほころぶのだ。
ぐう、とお腹が動くと、ああ、俺は生きているのか、と可笑しくなった。

こちらに来た名前が美味しい、と言って溶けるように笑うのが、好ましい。
三日月の目には、その身に宿る命がありのままに笑っているように見えた。

そして、同じなのだな、と思った。

ずっとずっと、命のやりとりを見て来た神様は、人の身体を得て、命というものの本当の姿を知ったような気がした。

さわり。ゆったりと吹く夕暮れのすずしい風に、橙色を乗せた花びらが光を零しながら流れている。

「……主はどうだ?」

先ほどまでの刺々しくささくれた空気は、水に洗われたガラスのようにまあるく霞んで、春の夕陽にふさわしい、優しい匂いになる。

縮んでしまった胸の奥が、花開くように、深呼吸をした。
名前はようやく、怖れの呪縛から解かれてみんなの顔を見渡す。

そうして、ひと目見たら分かってしまう。

泣きそうな瞳も、縋るような眉間の皺も、声を堪えてぎゅうと引かれた唇も。
名前を好きだと言っている。

強張った肩も、ぎゅうと握られた拳も、立ち竦む足も。
名前を必要としている。

心や想いは見えないところに在るのに、なんて雄弁に語るのだろう。

主はどうだ?
三日月の問いかけが胸に落ちて、名前は頷く。
すう、と息を吸った。深海からもどったみたいに、肺が痛んで、光が瞳の奥を射す。
私の見る世界はこんなにも、眩しかっただろうか。

「…私も。」
声が震えていた。
言葉にしたら涙声で、自分の気持ちを思い知った。
「…みんなと居たい。」
誓うような、願うような声だった。

夜が来たら、眠くなって。
朝が来たら、お腹が空いて。
身体の中に命を宿して、いまこうして生きている。それはそれは、笑ってしまうほど同じに。

「ああ、一緒に居ような。」

相容れない訳がない。
三日月は頷く。
眠くなったら布団に潜り込んで、お腹が空いたらご飯を食べる。そんな当たり前を共にしたいのは、それは、好きだからだ。
好きという、他になかった。

取られた両手が、三日月の両頬にあてがわられ、そのまますりすりと頬に押し付けられる。むにむにとした頬の感触が、手のひらに伝わる。キメの細やかなもち肌。肌年齢は、じじいではない。

彼らが神様だということは、ずっと分かっていたことだ。
三日月の瞳はまっすぐに名前を見つめる。
揺るぎない美しさを湛えた彼らは神様で、刀だ。それから、あたたかな体温をもつ、名前にとってかけがえのない人となった。
紛れもなく、彼女のそばで。

名前は、刀を預けてくれた鶴丸の言葉を思い出していた。
『それが、きみと同じに生きているということだろう。』
折れたら死んでしまう。傷付きながら、命を振るって戦ってくれた彼らを、信じないでどうする。

好き、は強い。
好きというただそれだけで、人は動く。

誰か、だったころの私は反対するだろうか。
…しないだろうな。
だって、もう手の届かないあの日々のなかでも、ずっと、彼らのことが好きだったんだから。

みんなのことを知らない私は、もう、どこにもいない。その事実がそっと、名前の中に根を張った。好きになってしまったら、もうその前の自分には戻れない。
確実に何かを失ったはずなのに、寂しさよりも温かな気持ちが心を満たして、彼女はもう迷わない。

名前は、はあ。と息を吐く。
先ほどまでの畏れは、すっかり霧散してしまった。
心の準備は、できていたはずだ。

分からないものはこわい。
一瞬でも、この暖かい神様たちをこわいと思ってしまったこと。
知らないならば、知っていけばいい。

ここにいる彼らのことを、もうただの神様だなんて思えない。言葉を交わして、触れ合って、知っているじゃないか。知り合っているじゃないか。

名前は、両手で三日月の頬をむにゅりと挟んだ。
むい、と押された頬のまま笑ってくれる彼に心ごと、甘やかされていることを知る。

「…っふふ。飯はまだか?っていうのは、さすがにおじいちゃんすぎる。」

計り知れないものはこわい。
想像を超えるものはこわい。
だけど、だからと言って、信じ合うことができないわけじゃない。

掴ませた頬をそのままに、三日月は名前の後頭部へ手を伸ばす。そっと抱き寄せるように頬を擦り寄せて、三日月は無邪気に言う。
「はっはっは、俺は主の刀で、今はただのじじいだ。」
「…うん。」
「ここには誰一人、お前に危害を加えるものなど居りはせん。」

そっと、そっと抱きしめられた三日月の肩越しに長谷部がぬらりと刀を抜いて、政府の狐に刃を向ける。

「!?」
「そういう訳だ狐。主は渡さん。五秒以内に立ち去らなければ首を飛ばすぞ。」
こわいこわい!
加州と大和守は、長谷部の秒単位での行動指針にやはり、ラピュタかよ。と思う。残り35秒はどこにいったのか。

名前が慌てて声をかける。
「長谷部!首とばすのは無し!」
「あるじ…。」
じわ…と目が潤んでいる。長谷部は後悔して居た。狐がとやかく余計なことを言う前に、うっかり切っておけば、主を不安に晒すことなどなかったのに。と。
…重い重い!
わかってたけど長谷部重い。

「もう大丈夫やから。」
と名前がどうにかなだめて、長谷部が刀を収める。

名前が狐のそばにしゃがんだ。
「そっちには行かんけど、あなたの気持ちは受け取る。一応心配してくれたんやんな?…ありがとう。」
交渉手段はめちゃくちゃ黒かったけれど、審神者の身の安全を確保するのが時の政府と言っていた。なにか大きな問題になる前に組織として手を打っておきたかったのだろう。

さらにいうと、名前にはひとつ確かめておきたいことがあった。

狐は、ふん。とため息をつく。
「このような状況は前代未聞。どうなっても、知りませんよ。」
「なるようになるよ。それにしても、なんで時の政府の部隊が本丸襲撃してきたん?」
「そ、それはですね、…っあ!」
「…やっぱりそうなんや?」

えっわわ!と狐が取り乱す。
やっとマスコット感が出て、可愛く見えてきた。
二万のほうのこんのすけについて尋ねたとき、この政府の狐は律儀に話に応じてくれたのだ。おそらく真面目な性格なのだろう。
こんなにセオリー通りの鎌かけに、引っかかってくれるとは。


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