誰か
言葉とともに、地面にひょいと降りたったのは、すっかり見知ったはずの姿形。こんのすけである。
「えっ!?」
名前が驚いて、小さく声を上げる。
そうして声を掛けた。
「急に悪役みたいなって、どしたん?」
初対面の時でこそ、こんのすけ黒幕説を警戒していた名前だったが、接するうちにこの小さな生き物に悪意や敵意が無いことを感じとっていた。
しかしなんというべきか、いま目の前に降り立ったこんのすけは、嫌に堂々としている。
女子的感覚になるだろうが、言葉を選ばずに言うと、可愛くない。
不遜で、無愛想な表情。
さっきまでの頼れるマスコットっぷりがその立ち居振る舞いから消えているのだ。
こんのすけ…いや、こんのすけと同じ風貌をした何者かは、黒目がちな瞳をうっそりと細めて、品定めするように名前を見ている。
その不躾な視線に、違和感を覚えたのは名前だけではなかったらしい。
「貴様、何者だ。」
遠慮のないその視線を遮るように、長谷部が名前を背にかばう。
その場にぴりりとした緊張感が漂い、刀剣たちがにわかに殺気立っているのがわかる。いつでもお前を黙らせることが出来る、と誰の視線もまた雄弁に、狐を牽制している。
刀剣たちをさらりと見渡してなお、狐の尊大な態度は変わらない。
どこか冷めたその視線は、刀剣たちに微塵の興味も示さず、長谷部の傍から様子を伺う名前へと向けられる。
「私は、政府の遣いのクダギツネです。悪役と申されるとは心外です。あなたさまはどうやらまだ状況をお分かりで無いらしい。」
鼻で嗤うような言い草は、名前のことを挑発しているようだ。
相手を言いくるめるためには、相手の頭を正常に働かないようにするのが手っ取り早い。そのためには、相手の神経を逆なでして怒りを買うのがもっとも簡単な方法である。
やはりこんのすけとは違う、曲者オーラがぷんぷんしている。
長谷部がかちゃり、鯉口に指を掛けて刀を抜きかけるのを、名前がそっと制した。
「しかし主…!」
長谷部の不安も想像がついた。
だけどここで交渉の場を潰してしまっては、次の機会を永遠に失うかもしれない。
戦争をしているという時の政府の話を聞かないことには、この本丸と、ひいては自分自身の行く末においても、どう舵取りすべきか分からないのである。
「大丈夫。」
頷いて目を合わせると、長谷部はぐうと感情を堪えるように引き下がった。
名前が狐と対峙する。
「うーん。というか君は誰なん?うちのこんのすけは?」
怒りを買って冷静な判断を出来ないようにするという常套手段。
しかし名前はその土地柄からか、おらおらする人に慣れてしまっているので、通常運転だった。というか、狐のおらおらが、彼女の目には随分とお上品に写っている。挑発がまるで効いていない。
「クダギツネ22162番は現在事情聴取中です。」
「くだ、え?二万…?」
「22162番です。」
「そんなにおるんや。」
と言った次の瞬間には五桁の数字を覚えるのをすでに諦めて、なんか個別のあだ名つけたほうが良いな、なんてことを名前は考えていた。
「もっとも、貴方の身の振り方でクダギツネ22162番の処遇は随分と変わります。」
「身の振り方…?」
はあ、と名前は首を傾げながら、なんとも取引的で嫌な喋り方だな、という感想を覚えていた。
一度も逸らされない狐の眼は、なにかがその向こう側から様子を窺っているように見えた。
こちらをただ機械的に見据えていて、引力が無い。まるで虚空の穴のようで、薄気味悪い。
監視されているような眼差し。この狐の中の人、ぜったい友達おらんやろな。そんな名前の考察も素知らぬ様子で、狐は言葉を続ける。
「哀れな人よ。現世から連れ去られ、この箱庭に、その体に、縛られて。」
知った顔をして笑みさえ浮かべたその表情に、その場に居た者のほとんどが、顔をしかめた。
ことの真相、この本丸という政府のシステムを知る者も知らぬ者も、誰もが現在の状況がイレギュラーな事態であることは理解していた。
そもそも傀儡を通して指揮をとって居た主が、いまこうしてここで生きていることが、時の政府にとっては、異常事態であるはず。
この政府の狐は、果たして主を、彼女のことをどうするつもりなのか。
名前もまた同じことを考えていた。
時の政府にとって、自分が正体のわからない異分子であるならば、彼らの目的はなんだろう。
身柄を拘束されたりするのだろうか。
あわよくば、審神者として仕事をもらいたかったのだが。そのためには取引をすることになるだろうか。だとすればまず向こうの要望を知り、妥協点を捜さなければならない。
ただ、政府の狐が自分の事をコントロール下に置きたがっていることは肌で感じられた。
つまり、この狐の言うことを、真正面から受け止めてはいけない。
悪意ある者の言葉は、全部飲み込んでは駄目だ。よく聞いて、触ってもいいところを選んで、投げ返す。そうすれば向こうの思惑に、毒されなくて済む。
「あー。やっぱりこれ私の体ちゃうよな?ごはんふつうに食べてるけどいける?」
茶化して、お話にならないと呆れてもらって、難易度を下げてもらおう、と名前は考えている。
狐はうっとおしそうに目を細める。
へえ、表情に出るんや、と感心しながら、名前はにこり、笑ってみせた。
「…ほう、受け入れると申しますか。戦を目の当たりにしてもなお、存外肝が据わっておられるのですね。」
「うん、まあ、首落ちるとことかは、見てないから大丈夫。」
「殺されるかもしれない、とは思わなかったのですか?」
狐の淡々とした、抑揚のない話し方がじわりじわりと空気を重くしてゆく。
「みんな、かっこよくてつよーい!ので、大丈夫かな、と思ってました。」
名前は重たい雰囲気が苦手なので、軽い方に持って行こうと必死だが、周囲は水を打ったように静かだ。
あの年中無礼講の和泉守でさえ、神妙な顔をして事の運びを見守っている。いまのかっこよくてつよぉい!という心ばかりのモノマネは、兼さんへの前振りだったのだけど、撃沈した。無礼講といえど、彼も之定なので、根が真面目なのである。
「ほほう、随分その刀たちを信頼しておられるのですねぇ。まあ、そちらの方が政府としても好都合です。……では、あなたにひとつ問いましょう。」
政府の狐はたっぷりと含みをつけて、とっておきの手札を場に出すように言い放った。
「ご自身の名前を、覚えていらっしゃいますか?」
「…え。」
その問いかけに、名前は初めて動揺の色を見せた。
どくんと心臓が嫌に跳ねる。
覚えていないはずがない。自分の名前を。自問しながら、記憶をたどる。
どれも鮮明にある、家族、友人、同僚、親しい人たちとの記憶。
彼らは私をどんな風に呼んでいた?
…無い。
通帳の名義に、テストの答案に、名刺の上にも載っていたはずの、自分の名前。
……無い。
自分の名前だけが、思い出せない。
もやがかかっているような、曖昧など忘れではない。
完全に、消えている。綺麗に、抜け落ちている。
最初から、自分に名前なんて、無かったかのように。
「……ない。」
初めて、声が震えた。
「覚えて、ない。」
嫌な震えだ。こわい、とも思った。
神隠しだろうが、自分の刀剣がしたことなら、ささいないたずら。
なんとなく、想像していた理由だった。
鶴丸に言われた時も、驚きこそすれ、こわくなんて無かったのだ。逢いたいと願っていた心そのままに、平気で受け入れられると思っていた。
だけど名前は、こちらに来てからただの一度も自分の名を思い出そうともしなかった。
初めてみんなと顔を合わせた時だって、名前を名乗るという考え自体がそもそもなかった。
これまでの人生で当然のようにしてきた自己紹介というものの、概念さえ、すっかり失っていたのだ。
彼女は今、その事実の異常さを自覚し、怖れた。
得体の知れない大きなものに、なにかを奪われるという感覚。
ぐるり自分を取り囲む刀剣男士たちが、遠く感じられる。
いまこうして人の形をとっていても、相容れない、彼らは神様なのだった。彼らを好きで、彼らからの好意も少なからず感じていた名前だったが、いま初めて、彼らに畏れを抱いていた。
狐の真っ黒な瞳が、苦しいほどに見つめてくる。どくどくどく、頭が脈打つようにぐるりと回る。心臓が嫌な音を立てる。
「…怖いでしょう?どれほど信頼しようと彼らは刀の付喪神。貴方の尺度で計り知れない。」
殊更甘く、毒々しいほど優しい声。
耳を貸してはいけない。
分かっていたはずなのに、すっかり揺さぶられた頭では、それが出来ない。
「此度の戦運びで、あなたさまの手腕は政府に認められました。政府に身を置き、この本丸の指揮をとるのです。こちら側に来れば、その身の安全を保障いたしましょう。貴方が望むならば、刀剣たちに異論はありますまい。」
正常な判断ってなんだろう、真っ当な答えってなんだろう。
名前が、無い。
つい、数日前までの自分が、まるで他人のように思えた。
私は、誰だったんだろう。
何度も何度も、記憶を確かめて、でもやっぱり思い出せなくて、もう二度と、誰にも名前を呼んでもらうことは叶わないのかと思ったら、ぎゅうと切なくなった。
神様たちに囲まれて、私は、いったいどうしたいんだろう。
どうするのが、正解なんだろう。
痛いほどの沈黙。刀剣たちは動けずに居た。彼女の眼差しが震えている。
こともあろうに主が恐れているのは自分たちの存在だ。いまここで下手に動いては、名前をさらに怖がらせてしまうかもしれない。
そうしたら、もう、この手をすり抜けて、彼女は行ってしまうかもしれない。
政府の狐はここぞとばかりに畳み掛ける。
「審神者さまの身の安全を第一に考えるのが我々時の政府の役目。神々に囲まれ、さぞお心細かったことでしょう。さあさ、こちらにおいでませ。」
刀剣男士たちは、狐の口上にぐっと拳を握り締め、耐えた。
主、あるじ、ここに居て。祈るような気持ちで、息を詰めて、小さな背中を見つめた。
名前を奪っても、こんな戦を目の当たりにさせても、それでも。
降りかかる火の粉は自分たちがひとつ残らず払うから、主に及ぶ危機はすべてかばうから。
我儘だろう、分かっている。でも今ならば、体を得た今ならば、少しぐらいは、人の子のように、願っても良いよね?
刀剣たちは、子どもが親に送るような眼差しで、名前を見つめた。縋るように。
焦れたように狐が再び声をかける。
「審神者さま、はい、とひとことお返事いただけたら我々は…「ちと待たぬか。」
口火を切ったのは三日月宗近だった。
ゆるり、ゆるりと名前の側まで歩み寄る。神さまだと意識して見ると、その動作のすべてが、神々しく映る。
名前は、その光景を目に映して、おじいちゃんとか呼んだことを悔い改めたいと思った。
三日月は名前の側までくると、優美に笑んだ。
柔らかく見つめられる。夜闇の色をした睫毛の先が、夕焼けに染まって、橙の光を乗せている。
なにするんだ、と皆が固唾を飲んで見守る中、こてり、三日月が首をかしげた。しゃらり、黄金色の髪飾りが揺れて、光を方々に撒く、美しい光景の中、ひとこと。
「主よ。飯はまだか?」
「……。」
…えええええええ。
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