夜をかわして


お風呂を終えて、髪を乾かして、布団に入る。こんなところへ来ても、別の体でも、いつもとやってることは同じなのだから、生活は偉大だ。

天井を見上げて、寝て起きたら夢だったりして、なんて、よくある展開を考えたけれど、冷静なもう一人の自分がこんな意識のしっかりした夢なんてあるわけないだろうとあっさり否定する。朝と同じだ。

意味は無いと分かっていても、頭の中はうるさく、想像は止まらない。

やめよう。寝よう。
目を閉じる。
しかし、眠りにつく瞬間、その瞬間の自分に気付いて、目が覚めてしまう。

頭はぼんやりと疲れているのに、眠りの海へ潜れない。意識は浅瀬を転がり、すぐに砂浜へと打ち上げられる。
まるで体が眠りにつくのを恐れているようだ。
何度も寝返りをうって、とうとう名前は身を起こした。眠れないときは、寝ようとしないほうが、気持ちの疲労度が少ない。

寝室を出て、執務室へ。
部屋の灯りは消えていて、障子の外がうすぼんやりと明るく見える。なにをするでもなく、畳に座り込んで机にこてんと頭を乗せた。伏せた腕に頬を乗せて廊下を眺める。

先ほどまでの賑やかさは朧月夜に雲隠れしたように、静まり返っている。
名前は、突然ひとりを感じた。

昨日までの私の現実は、いったいどこへいったんだろう。変わらずに続いていたとして、別の私がそこにいたりするのだろうか。それとも、意識がなかったというこの体のように、置物にでもなってしまっているのだろうか。手のひらを見た。仄白く、暗い部屋のなかにも確かにある、自分の手のひら。
誰が気付くだろう。気付いて、それからどうするんだろう。
ずっと慣れ親しんできたあの体は、なんて自分の体を懐かしく思う日がくるとは。1日離れただけなのに。

名前は、死ぬってこんな感じなのかなぁと考えた。もと居た場所は、もう自分の居場所ではなくなって、それでもきっと、世界は動き続けるんだろう。そう思うと、自分のちっぽけさがとても寂しく思えた。
悩むときは思考の海を泳ぐように、溺れないところまで。眠れない夜に考え事なんてするものじゃない。夜の海は暗くて、うまく泳げない。
もういい大人なのに、ひとりになったとたん、こんなにも寂しいなんて情けないなぁ。

そこへ、廊下を歩く人影。
名前は、つい呼び止めてしまう。
「待って。」
いま、このまま一人で居ては泣いてしまいそうだった。でもなぜだか泣きたくない。泣いたら、誰かの気持ちを裏切ってしまうような気がした。

人影が立ち止まる。
「主…?まだ起きていらっしゃったのですか?」
物腰の柔らかな、一期一振の声だ。
声が返ってきたことに、安堵する自分が居た。よかった、ひとりじゃない。ちゃんとここにいる。誰かと繋がって、存在している。
夜の闇は親しげに隣り合って、自らを縁取る輪郭さえふわりと曖昧にしてしまう。
言葉を交わすことで、しっかりと手を握られたような気持ちになった。

「うん、なんか寝つき悪くて。」
襖越し、一期一振の影。右手が戸にかかって、しばし逡巡。
「…入ってもよろしいですか?」
「いいよー。」
名前は、机にもたれかかっていた体を起こして居住まいを正した。

「…失礼致します。」
襖が開く。月夜を背にした一期一振に導かれるように、淡いひかりが部屋へ舞い込む。
ふわと冷たい風が入ってきて、名前は呼吸をする。ひんやりと美味しい水を飲んだように、生きている心地がした。
新しい体の中をひとつひとつ確かめるみたいに、春の夜の凛々しい風が流れてゆく。

「呼び止めてごめん。…いま大丈夫やった?」

一期一振はそっと、名前のことを見つめる。襖越しに声を聞いたときは、泣いているのかと思ったが、違った。
こちらを見返すその表情は、泣くのをがまんして強がる、弟たちの顔にそっくりだ。
その顔を見て、案外不器用な方なんだな、と一期一振は思い直した。他の刀剣たちと難なく打ち解ける様子を見て、愛嬌のある世渡り上手とばかり思っていたのだ。

「ええ。主を差し置いて、優先すべき用などありませんから。…どうしました?」
柔らかく笑って、後ろ手に戸を閉めた。部屋の中、空気の流れは止まって、また薄闇に包まれたが名前はもう寂しくない。
もうひとりじゃないなら、話して、寂しい自分なんて忘れて、明るい方を向きたい。

「お昼に寝たからかなあ。ぜんぜん寝られへんねん。」
一期一振が隣へやってくる。
目に新しい着流し姿だが、和服を和服たらしめる美しい足捌きから、彼がこれを着慣れていることは十分に伝わるだろう。
「ええ、三日月殿の腕の中で眠られたそうですね。」
「…なんで知ってるん?それになんか語弊ある!」
「ふふ、それは…秘密です。」
「え、なんで秘密なん!気になる!」
名前は気になる。あのとき部屋に居たのは三日月と鶴丸だけだったはず。

一期一振はいたずらに目を細める。唇に手をやった、含み笑いの表情だ。
口を開いたとたん、しおらしさのかけらも吹っ飛ぶような彼女の軽妙な物言いに、どこか懐かしさがこみ上げる。
それと同時に、ああ、見えないのだな、と彼は思った。
それは昼間の同じ空にも星々があることを忘れてしまうのと似ている。
誰かと共に居る時、この主の弱い、暗い、静かなところは見えない。意図して見せていないのか、はたまた見せ方がわからないのか。果たしてどちらだろうか。

「そうですねぇ。私の弟には、偵察が得意な者もおりますので。」
なるほど。
「…すごいな粟田口情報網。」
すごい。正確には粟田口包囲網である。様々な角度から審神者を粟田口沼へ誘う。十人十色のその魅力。可愛い可愛いとついていったら懐に入られて柄まで通されて乱れてお覚悟されているという噂だ。

見せないも見えないも無く、名前はただ忘れているのだった。一期一振の例えを借りるならば、彼女にとってその瞬間に関わる人こそ太陽だ。それが眩しくて、悩みに目を凝らすことなんて、きっと一人の時にしかできないのだろう。
今だってただただ粟田口情報網について考えを巡らせている。鯰尾あたりに秘密を握られたらいじられそうだなぁ。と。秘密もなにもないくせに。

「ええ。私がこうして主の部屋にいることだって、筒抜けかもしれません。」
「うわあ、それはこわいなぁ。」
「…怒られてしまいますな。」
「一兄のこと独り占めしてるーって。」
おや、そちらでしたか。一期一振はにわかに目を丸くする。彼は、こんな時間に女性の、主の部屋に自分がいることを咎められると言いたかったのだが、どうやら彼女は自分をお兄ちゃんとしてしか認識していないようだ。

「ああ、そうですね。では、逆も然り。私も主のことを独り占めしていることになりますな。…一緒に叱られましょうか。」
どこまでも無邪気に笑って、手が伸びてくる。
名前は一期一振の動作の美しさに気をとられる。流れるような自然な仕草で、後ろ髪を手櫛で梳かすようにそっと撫でられた。

撫でられることにはどうにも慣れない。こそばゆいし、慈愛を向けられるのはなんだか甘えのような気がして落ち着かない。
けれど、一期一振のこの仕草には不思議と悪い心地がしなかった。それどころか、後頭部に触れる優しい掌に安心感まで覚える始末。

一期一振はリードが上手い。まるでエスコートするように、相手の重心を見定めて手を添える。それはもう軽やかに。この才覚は、心の機微へも同じようにはたらく。

「…すごいお兄ちゃん力やな。さすがいち兄。」
「ふふ、お褒めいただき、光栄です。」

髪を梳かす指が、するり、するりと滑る。
胸に絡まる不安まで、一緒に溶かしてしまうような、一期一振の大きな手。

耳の上の髪をかきあげるようにひと撫でされて、思わず目を閉じた名前の頬に、ぴとりと掌がくっついた。
その温かい手は名前の頭の奥の、眠気まで手懐けてしまう。親指が、潤んでいた目尻を拭った。
それに名前ははっとして、いつのまにか傾いでいた背筋をするりと伸ばした。
簡単に甘やかされて、恥ずかしくなる。
「ごめん、眠くなって、涙でてきた。」
半分本当だ。

一期一振は、指先に触れて馴染んだ涙の粒の、その感触をきゅうと奥歯で噛みしめる。
そして名前に悟られぬように、上手に笑ってみせた。
「それはよかったです。弟たちを寝かしつけるのは得意ですので。…さあ、もう布団へ参りましょう。」

横たわったところに掛け布団まで丁寧にかけられて、名前は少しいたたまれない。
「なんかちっちゃい子になった気分。」
「おや、違いましたか?私からすれば、主も十分…その、ちっちゃい子です。お気になさらず。」
外見の年齢はあまり変わらない気がするけれど、お兄ちゃんはやっぱり懐の広さが違うなあ。と名前は感心した。
「…いち兄。」
「はい。」
「…呼んだだけ。」
「ふふ、…はい。ほら、もう目を閉じてください。」
そう言って、瞼の上、手がかぶせられる。
閉じた瞼の外に、一期の体温が降ってくる。温かさが、まつげに積もる。

名前の視界を塞いで、一期一振は静かに長い息を吐く。
主としてではない、彼女の人間的な部分に触れたいと思うのは、許されないことだろうか。一振りの刀、家臣という立場、仮初めの身。それでも、こうして同じ器を得た今ならば、できることはあるはずだ。

主に賜ったこの身を、あなたのものですと差し出したところで彼女はきっと受け取らないのだろう。
「…主、あなたは独りではありませんよ。」
ならばせめて知っておいてほしい。この命が続く限り、あなたを独りにしないと。

「…寂しがってたん、ばれてた…?」
名前は苦く笑う。
「ええ、兄の目は欺けません。」
「…ごめん。」
温かく閉ざされた目元、一期一振の柔らかい声が、ちょうど外の朧月の光のようにふわりとまぶしい。
「何を謝ることがあるのです?…どんな姿を見せられようと、私が主を慕う気持ちは、そう簡単には揺るぎませんよ。」

名前は言葉を受けて、じんわりと胸が暖かくなるのを覚えた。瞼に乗せられた手を、そっと掴んで取る。ゆったりとした瞬きをひとつして一期一振の顔を見上げる。
慈しみに満ち満ちた瞳と視線がかち合って、言葉の意味を知る。優しいお兄ちゃんだなぁ、とわかってて問うた。
「ふふ、いち兄、それって口説いてるん?」
「えっ、…っはは、前の主の影響ですな。」
眉尻を下げて赤くなった頬で、困ったようにはにかむのは一期一振。
ひひ、と名前が意地悪く笑う。

笑えるなら、僥倖。
踊るように言葉を交わして、呑気に笑んでいれば、夜の淡い光もこんなに頼もしい。
重い重い、重力を含んだ闇のその底にも手が届きそうだ。

「さあ、もう眠れるでしょう。」
「うん。おやすみ。」
一期一振の大きな掌が、額から前髪を掬うように撫でた。無遠慮な仕草が、かえって心地よく名前は目を閉じる。
ひと撫で、ふた撫で、ぱらぱらと散らばった髪が生え癖に従って戻るその隙間で、一期一振の影がふわり、彼女の瞼にかかる。
ん、と目を開けた時には、ちゅ、と額に口付けられた後だった。

「…えっ、えっえ。ええ!?」
「ははは、よく眠れるおまじないです。おやすみなさい、主。」

優しいお兄ちゃん?
負けず嫌いの男の子じゃないか。
名前は額を押さえて唸る。
…今度こそ眠れない。



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