その心を信じれば良い


ありえへん状況に遭遇したら、夢か疑うってほんまなんや。

あるじあるじと煩い長谷部を尻目に、今度は名前が混乱する番だった。
夢にしては、やたらと記憶が鮮明である。働いて、家に帰って、眠るまで、昨日の出来事もつぶさに覚えている。
名前はようやく意識的に自分の身体の感覚を探り始める。明晰夢か?
にしても夢なら違和感があるはず、むしろ、違和感に気付いてない自分が居るはず。つっこみどころがあるはずやねんけど、などと考えている時点で、これが夢である可能性は極めて低いのだが。

目の前で、名前の肩をしかと握った長谷部の顔を見つめる。やはり近いな。
その額の生え際の髪の毛一本一本もしっかりと見えた。すっと通った鼻筋のなだらかな曲線も、藤色をした瞳の光彩の美しさも、朱の差した頬もつぶさに観察したが、長谷部…うわあ…イケメンだ…としか思わなかった。
存在自体が非現実的なものであるはずなのに、長谷部はここに"居る"と断定せざるをえない。
肩に触れる手の温かさも、はっきりと感じる。生きているのか?彼も、人なのか?

「…長谷部、ちょっと待って」
ひとまず、落ち着かないので肩に置かれた手を掴んで退けさせる。
「…はっ!はい!主命とあらば!」
初めての生主命とあらば!は、想像を上回る剣幕で、力強い。うわぁ長谷部めっちゃ長谷部やん…。と名前は長谷部の長谷部っぷりに少し引いた。

さっと傍に控えてくれた彼を横目に、名前は部屋を見渡す。
和室だ。広い。10畳ほどあるだろうか?自分が座っているところは、一段高くなっていて、なんだか玉座みたいだ。仰々しい椅子。見覚えは、やはりない。どうやら知らない場所のようだ。

夢なのか?と疑いながらも、意識は反比例するように冴えていく。
障子の向こうは夜明けなのか、橙の光が硝子を透かして部屋に落ちている。

差し込む太陽の眩しさは畳に落ちて、長谷部の髪の表面を光の輪が泳いでいる。
い草の匂いにまじって、水分を含んだ土が温められて起き上がる、朝の匂い。
自分がすん、と鼻をすすった音と、部屋の外で雀が鳴く声。
腰掛けた椅子の、背凭れの柔らかな感触、触れた肘掛のつるつるとした木の手触り。
体から知りうる感覚の全てが、紛れも無い、現実のそれだった。

夢によくあるような、辻褄の合わないものは見当たらない。

ついで自分の手のひらを見やる。刻まれた手のしわも爪の形も、見知ったそれだった。だが、僅かに違和感。自分の身体であるようで、少し違う。
「うーん、なんかいつもより肌白い?」光の加減で、こんなに変わるのか?翳した腕をするり、着物が滑る。
「え?着物?」寝るときは普通に部屋着だったはず。腕も心なしか、少し細いようだ。
ついで名前は頬に触れた髪を触る。まずこんなに長くない。毛先を摘んで視界に運んでさらにぎょっとした。染めていたはずの見知った髪ではなく、まるで生まれたときのような、透明な黒髪。
指の長さや手のかたち、それこそ違わぬ自分の身体。
しかしどこか違う。
いなめない、なにこの使ってない感。
"新品の"自分の身体である。という結論がいちばんしっくりきた。それと同時に気が遠くなるような感覚。大泣きしたあとのように、じいんと耳鳴りがして、一瞬全てが遠のいた。
動機がする。この心臓の音は、他ならぬ自分のものだ。
自分の、この身体のものだ。
どうなっているんだ。

「主…どうしたんです?」
自分と同様にこの状況に混乱している様子の主を見守っていた長谷部だったが、いよいよ絶句してしまった主に、口を開いた。
「どこか、具合が悪いのですか?」
そういって、片膝をついて主の顔を覗き込む。

「だ、大丈夫。」
名前はひざ元にしゃがんだ長谷部の頭を、ぽんぽんと撫ぜた。
「なっ」
固まる長谷部をよそに、名前は思考する。夢だとしか思えない状況。もっとも、目の前にいるのはあの長谷部だ。お前がおるから大丈夫ちゃうねんとはいえまい。
彼らと言葉を交わせないことも、同じ世界を生きられないことも、名前は悲しいくらいに知っている。
わからない。
やり場のない心のままに、長谷部の頭をわしゃわしゃとかきまぜる。
手のひらに、柔らかく張りのある髪の感触が伝わる。
「わ、あの…!あ、主!どうしたんです!?」
犬っぽい。
嬉しいのか、頬が赤らんでいる。
ほら、長谷部なんだよなぁ。

覚醒していく脳は、体は、逃れようのない現実感を訴えてくる。新品のような、この体。そのくせ、与えられる五感のすべては疑いようもない、知り尽くしたもの。
これこそが今の自分に他ならなかった。

静かに辿った記憶もしかり。昨日のこと、先週末のこと、仕事の状況、家族、友人、幼いころの出来事まで、思い出せた。…思い出せてしまった。 ある一つの見落としを除いて。

「はぁ、やっぱり夢じゃない…?長谷部?」
名前の手のひらを頭に乗せたまま様子をうかがっていた長谷部は、困ったように、それでいながら嬉しそうにはにかんだ。
長谷部は名前の手を取って、すくっと立ち上がると、そのまま胸に手を当てさせる。
胸に当てられた右手のひらに、そっと手袋越しの長谷部の手が重ねられて、とくとくとその下の鼓動が指先に伝わる。
長谷部はゆっくりと、大切に言葉を選んで話す。
「夢ではない、と思います、主。取り乱してしまい申し訳ありません。こうして話せたならと、ずっと願っておりました。」
合わせた目はすこし潤んでいた。長谷部の顔には感無量と書いてある。

「そっか。長谷部、生きてるんや」

頭で理解したって心が受け入れられるとは限らない。
でも。それでも。
十分すぎるほどだった。

「はい!俺はこのとおり、ここに生きてますよ、主。」

得意気に言ってのけた長谷部、ドヤァと効果音が付きそうなその表情に、なぜだか名前は涙ぐみそうになった。

生きていて、こうして会えたのか。

ひとまずここを現実と認めよう。この身に与えられる感覚を信じよう。
だって、こんなにも嬉しいのだ。
悟られないよう涙を堪える。

「私も、逢えて嬉しい。」
名前もまた、困り顔ではにかむのだった。



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