「夏樹」 「…お、」 久しぶり。二人の声が重なった。珍しく、ハルやユキの釣りの誘いを断った帰り道。何となく一人で海沿いを歩いていれば、思いがけない出会いがあった。 「夏樹、なんかちょっと背が伸びたんじゃない?」 「お前こそ、髪なんか伸ばしてどうしたんだよ」 そこで手を振っていたのは、幼なじみの彼女だった。どうして「だった」と過去形なのかと言うと、彼女がいま、江ノ島に居ないからである。同じ小学校、同じ中学校と上がり、当然のように同じ高校に進むと思っていたオレの未来予想図は思い通りにはならなかった。彼女が生まれ故郷、江ノ島を飛び出して、知らない土地にたった一人ぼっちで進学してしまったのだ。 「戻って、きたのか?」 「うん、3日間だけ」 「…そうか」 てっきり、江ノ島へと帰ってきてくれたのだと思った。そんな落胆が表情に出ていたのか、彼女は申し訳なさそうに頷く。あの頃。まだ二人が外の世界をなんにも知らなかった頃。オレたちには江ノ島だけが、自分たちのすべてだった。 「夏樹は今、なにしてるの」 「釣り」 「まーだそんなこと続けてたんだ」 「そんなことってなんだよ」 「夏樹って、ずうっと変わらないんだなあって思って」 夏樹の頭の中って、釣りのことでいっぱいね。ふと、懐かしい記憶がよみがえる。二人で揃いの麦わら帽子をかぶって、小舟に乗って、海へ繰り出したあの日。夢中になって釣竿を投げるオレへ投げ掛けた、やけに憂いを帯びていた、彼女の言葉。どうして今、それを思い出しているのかはわからない。ただ今の彼女の口ぶりと、あの憂い気な瞳が重なって見えたのには間違いなかった。 「なあ、釣りしないか」 「えー、わたしはあんたと釣りする為に来たんじゃないのよ」 「いいじゃねーか、付き合えよ久しぶりに」 さっきハルとユキの誘いを断ったくせに、あいつらに見つかったらいじけるだろうな。そんなことを頭の片隅で思い浮かべながら、港に寄って、小舟を一艘借りた。釣竿はオレの家に寄って、取ってきた。彼女は渋っていた割りには文句ひとつなく、後ろをついて歩いている。 「よし、乗るぞ」 「あ、待って夏樹、怖い」 「はあ?今更怖がるなよ、昔あんだけ乗ったろ」 「だって向こうではもう船なんて乗らないもの」 「………ほら」 しょうがないから手を差し出してやったら、彼女は本当に怖がりになってしまったようで、オレの手をぎゅうっと握って離さない。おいおい、船が操縦できないだろ。そう言ってやっと、手と手は離れる。 「なんか、不思議」 ちっとも変わってない景色のはずなのにね、なんだか少しだけ、変わってしまった気がするの。船から続く無数の波飛沫を見つめていると、彼女が呟いた。独り言かと思ったが、そうではないらしい。 「それは、お前が変わっちまったからじゃないのか?」 「…うん、そうかも。そうなのかも知れない。」 流れて行く江ノ島の風景を遠目に見つめる彼女の瞳から、つー、と落ちていく雫があったのを、オレは見逃さなかった。ああ、見なければよかった。変わり行く自分自身に戸惑う彼女の姿を、こんなに目の前で、確かめたくなかった。 「夏樹、もう一本釣竿、ある?」 「…あるけど」 「貸して。わたしも、ひさしぶりに釣ってみたい」 特別にオレのお気に入りを貸してやれば、うわー懐かしいなあ、覚えてるかなあなんて、割とはしゃいでる様子に少し安心した。おまけに、えの!しま!どーん!なんて掛け声までつけて竿を振るもので、つい声を上げて笑った。懐かしい。嬉しい。楽しい。波はとても穏やかで、風も静かだった。日焼けが気になると彼女が言ったので、ケースから麦わら帽子を1つ出して、彼女にかぶせてやった。 「夏樹は友達出来たの?」 「なんだよ、オレがぼっちみたいな言い方」 「だって夏樹は、釣りばっかりだからさ」 「…出来たよ。高校は言って2人、いや3人かな。しかも皆で釣りしてんだ」 「へえー、変わった人たちね」 意外と乗り気で聞いてくれていたので、それでさ、と続きを話そうとすると、彼女の持っていた釣竿から垂れた糸が、僅かに揺れた。 「わっ、かかっちゃった!どうしよ!」 「手え離すなよ!絶対!」 手の上から手を重ねて、二人の力で竿を引く。ぐいぐいと水中から、獲物もオレたちに負けまいと引いている。 「わああ引っ張ってるうう」 「よし、一気に引くぞ!」 「せーの!」 釣りあげた小振りな魚はまだ成魚ではないようで、足元でびちびちと跳ねている。綺麗な青い色が余計気に入ったようで、彼女はバケツに魚を放ってもずっとそれを見ていた。だが結局、釣った魚はキャッチアンドリリースで海に帰してやった。折角だから持ち帰ればいいのにと言ったのだが、住むべきところに帰してあげたいから、と彼女が言って聞かなかったのだ。 「いいとこだあ、江ノ島」 風に靡く髪の毛をはらいながら、彼女はまた独り言のように呟く。 ▼ 「夏樹、わたしまた帰ってくる」 「いつ?今度は事前に連絡くれよ」 「だめだよ、それじゃびっくりしないでしょ」 だから、今回は作戦大成功だよ。そう言ってぴたりと歩を止めて、急にこちらを振り返る。今まで見ていた背中がくるりと反転したので、つんのめって二の足を踏んだ。 「夏樹が思ってる程、わたしは江ノ島のこと忘れてないよ」 「……」 「夏樹との思い出はぜんぶ、この島にしかないから」 すっかり言葉の出ないオレに満足したのか、彼女は再び前を向いて歩き出す。おい、置いてくな!はしゃいで後を追い掛けるオレは年甲斐もなく、まるで子どものようだった。 不器用な彼女の帰ってくる場所がここ江ノ島であるように、不器用なオレにも帰るべき場所があるとすれば、それは今も昔も変わらず、彼女の中にしかないだろう。 ∴いつも帰る場所を探してる 同瀬さん |