「あゆ兄、お疲れ様!」 そう言って、青春丸の整備を終えた俺の元に走り寄って来る彼女は、夏樹の幼なじみであり、ヘミングウェイでアルバイトをしている子だ。 俺とも昔から親交があって、仕事の手伝いを進んでやってくれることも多々ある。 今や俺の助手のような存在だ。 頭の高い位置で結ばれたポニーテールがぴょこぴょこと跳ねて可愛らしい。 「おう!そっちもお疲れ様」 そう言って俺が青春丸から降りると、彼女が水筒を渡してきた。 「これ、海咲姉から。いつものあっついやつ」 「おっしゃ!これで1日の疲れも吹っ飛ぶな!お前も飲むか?」 「いいの?えへへ、ありがとう」 浜辺に二人で並んで座り、水平線に姿を隠し切ろうとしている夕日を眺めながら熱い紅茶を飲む。 バイトが終わってほどかれた彼女のセミロングの栗毛が海風になびいて、夕日に照らされた。 それがひどく美しく、幻想的に見えた。 町の大半には筒抜けらしいのだが、俺はヘミングウェイの海咲さんが好きだ。 それはもう、海咲さんに褒められたりしたら天国に飛べるくらいだ。 だけど最近、今まで妹のように思っていたこいつのことが気になって仕方ない。 気がついたら彼女の姿を目で追っているし、仕草ひとつひとつに惹きつけられてしまう。 今も、「あちち、」と言って紅茶を吹き冷ます様子に、なんだか目が離せない。 それに……彼女には、俺の船でいろんな景色を見せてやりたいと、そう強く思うことが増えた。 海咲さんが海風のような爽やかな可愛さだとしたら、こいつは浜辺にそっと落ちているような桜貝というか……。 って、何言ってんだ俺!! これじゃ変態みてーじゃねーか! 「あゆ兄、飲まないの?せっかくの熱い紅茶が冷めちゃうよ?」 「あ、ああ。そうだな、飲む飲む」 少し焦って紅茶を流し込んだせいで、軽くむせそうになった。 海風を浴びながら、二人でたわいない話をする。 最近彼女と夏樹のクラスに入った転入生の話をしている最中に、彼女が小さくくしゃみをした。 いつの間にか風が冷たくなっていた。 「いっけね、もうこんな時間だったな」 「本当だ。そろそろ帰らないと晩御飯食べそびれちゃうから、私帰るね」 「家まで送るよ」 「えっ、でも……」 「いーからいーから!」 俺がほんの少し強引に押し切ると、「それじゃあ、お願いしちゃおうかな」と無邪気な笑顔を返してきた。 ついさっきまで顔を覗かせていた夕日はすっかり沈み、空は青紫に染まっていた。 「お前も、そろそろ学校が忙しくなってるんじゃねーか?バイトが大変なら減らしてもいいんだぞ」 帰りの道中にふと思い出したので、最近気になっていたことを何気なく聞いてみた。 いつも彼女は休日でも長時間働いているから、心配になることもあるんだよな。 「ううん、全然!楽しくてやってることだから!それにね、もっと海のこととか釣りのこととか魚のこととか………たくさん知りたくて。あのお店にいると自然と覚えられるじゃない?」 いつの間にかそんなに海が好きになってたんだな。 宇佐美家や海咲さんや俺との付き合いが長いからということもあるだろうが、やはり海を好きになるかどうかは個人次第なわけで。 彼女がそう言ってくれたことがすごく嬉しかった。 そのとき、彼女が何かに気づいたように顔をほころばせた。 「見て、あゆ兄!星が綺麗だよ」 彼女の言葉に促されて俺も夜空を仰ぎ見る。 そういえば今朝の天気予報で、今日は一日中雲一つない空が続くって言ってたな。 普段から都会よりは空気が澄んでいる江ノ島では星がよく見えるが、今夜の星空はより一層輝いて見えた。 「海の女になるよ、私!」 「急にどうしたんだよ、そんなでけー声出して」 語気を強めて発せられた彼女の言葉が突然だったものだから、少し驚いた。 彼女は俺に向き直り、俺達の頭上にある星に負けないくらい輝いた瞳で言葉を続ける。 「船長の隣に相応しい人になりたい。まだまだ未熟者だから」 心臓がどくん、と脈を打つ。 「船長の隣」の意味は、今の俺の助手ポジションを指すのか、それとも……。 「なれるよ、お前なら」 言葉の意味は尋ねられなかった。 当たり障りのない返答をして、彼女の頭をポンポンと撫でることしかできなかった。 情けねえ。 ……もうすぐ彼女の家に着いてしまう。 このまま時間が止まっちまえばいいのに。 響く波の音が、二人だけの空間を創りあげているようだった。 「送ってくれてありがとう!やっぱりあゆ兄みたいな男の人がいてくれると、夜道も怖くないね」 彼女の自宅前に着いてしまった。 あの発言のあと、俺は彼女の真意を確かめるべきか迷っていた。 「じゃあ、またね!しっかり休むんだよー?お疲れ様!」 完全に無意識だった。 気がついたら彼女を自分の腕の中に収めていた。 手を振って玄関に向かおうとしていた彼女は、さぞかし驚いていることだろう。 俺に背を向けている状態だから、お互いの顔は見えない。 正直、見えなくて良かった。 「あ、あゆ…兄……?」 「さっきの、さ。俺の隣ってどういう意味か、教えてくれ」 やっぱり、はっきりさせずにはいられなかった。 それは海の男だからというわけじゃなさそうだ。 その証拠に、彼女の耳元にそう問いかけた俺の声は、普段の俺らしくもない弱々しい声だった。 ああ、本当情けねぇな。 しばしの沈黙が流れたあと、彼女が腕の中でくるりと反転して俺の胸元に顔をうずめ、抱きしめ返してきた。 きっと、今にも破裂しそうな俺の心臓の音が聞こえているだろう。 「……あゆ兄のことが、お兄ちゃんとしてだけじゃなく好きって意味」 腕に力が籠もる。 今になってやっと気づいた、 俺はこいつを愛しく思っているのだと。 「俺が、お前を海の女にしてやるから。これからいろんな景色を見に行こう……二人で一緒に、な」 彼女の温もりを感じながら、もう一度思った。 時間が止まっちまえばいいのに。 この幸せな時間を永遠にしてくれればいいのに。 今の星空なら、叶えてくれそうな気がした。 ∴ピーターパンの星空 風音さん |