小説 | ナノ


「は、ハルっ!」
「んー?なあにっ、 あ、…『いい天気だね』?」
「違う!ってかそれ出会い頭にやったでしょうが!!」

わたしの手を引くハルの手はとても細い。まるで女の子みたいに華奢で、線がしなやかで、けれど男の子独特の骨張った印象は拭えない外観をしている。彼はよく笑うけれど泣かない少年だった。いや、感情が高ぶり感涙する事を元々知らないのかもしれない。自称宇宙人の電波少年はやけに元気で、本日限定でわたしを振り回す権利を得た彼は特別な事など何もせず、江ノ島の中をずうっと探検しに歩行しているだけなのだ。何がしたいんだろう、彼は。

「これ違う…なら  えっと、んー、どれ?」
「どれも何も、いつ帰っていいの?」
「えーっ…帰っちゃう 、の?」
「…、なに、文句でもあ、」
「僕、淋しい」

素直に言の葉選定に躓いた。そのまま転けて、地面と派手に熱い口付けを交わしてしまう。痛いと言う割には顔が赤くて、熱が対と成る頬肉に集っている。戸惑い言葉に詰まるわたしに、ハルはぎゅっと手を握る力を強める。只管に萌やしのように極細である彼にしては、幾分か力強い手だなあという印象を抱かせた。ほそい、なのに頼りになりそう。いつか此の手でわたしを江ノ島から連れ出してほしいもんだなあ、……い、いやいや、流石に此れは洒落で終了させたい話題だ。

「だって僕、もうちょっとで…地球から、いなくなるから」
「はあ…?ま、まだそんなこと言ってたのあんた…」
「うんっ。だって、ほんとーの事だもん!」
「どーだか…」
「む!信じてない!? 僕、ちゃんと本当の事言ってる!まじめ!」
「あんたのその声音が言葉の意味を殺してんのよ…!!」

もしもこいつが本当に宇宙人なら、わたしが連れて行かれてしまうのは宇宙だ。其れはいけない。わたしは地球人であり、日本人であるのだし、言語に関してぺらぺらと詳細を語れる程知識豊富で脳味噌もよく回る人間ではない。何かを延々と喋るには、度胸と回転の早い脳味噌とユーモアセンスとスパイスに成りうる胡椒その他諸々が足りていない。欠けているのだ。そう、自分を味付けるしっかりとした調味料が。
「ころす?ぶ、物騒!こわい!」とぶるり震えてみせたハルに、こりゃどうしたもんだかと眉宇に皺を寄せる。地球侵略にやってきた宇宙人としては随分と警戒心が育っていない。こう、もうちょっと、宇宙人って「機密情報を知ったからにはお前はもう家には帰さないゼ」とか言っちゃう怖い組織体なのではないかと想像していたばかりに違和感を感じ…、いや、わたしの拙い妄想の話題はやめておこう。此れ以上やっても傷を抉るだけだ。

「あ、そーだ! ねえねえねえ、釣りしよっ!」
「唐突すぎでしょ。少々ばかり脈絡というものを考えて…」
「釣りっ!ねー、魚、釣ろう?そしたら、ご飯いっぱい!」
「いやいやいや?!人の話聞いてたの君は!!!あのね、わたしは一刻も早く帰宅しないと、ドラマの再放送に間に合わなっ」
「釣ーりーーーー!!!!!!!! 一回だけ、一回だけでいいからあ!」
「……」
「…だめ?」

底抜けに明るくて、好奇心があって、常に笑顔を浮かべて頑張れる彼がとても羨ましい。彼のような人間味を渇望するし、こんな風になれたら幸福なのだろうとも思考する。イマイチ自分という存在を掴み切れないわたしにとっては、どんなものが人間らしいものかとぼんやり考えた。何度も何度も考えて、失敗して、やっぱり成功には踏み切れなくて、ダメで、できなくて、つらくて。どうしようもなく、ぶれない彼に憧憬を向けてしまう。

「……、釣り終わったら、帰っていいの?」
「ご飯はっ? 今日ケイト、美味しいもの作ってくれるって言ってた」
「わたし、邪魔じゃない?」
「ぜーんぜん!寧ろ嬉しー! ご飯、一緒に食べる人が多いほど楽しい、ケイト教えてくれた!」
「ふうん…、」
「だからっ、釣りして、一緒に帰ろう?」
「……うん」

眩いと思わせるほど破顔してからの微笑みが綺麗に思える。ハルの笑い方には邪念が一切混じっていなくて、そういう側面もうつくしいと思う。だんだんと橙色に染まる空に映えた彼の横顔は、一生忘却することができないんじゃないのかな、と思わず目縁を眇めてしまった。
未だにわたしの明確な答えは見つからないし、解答欄は真っ白なまんまだ。だからと言ってこのまま問題を放棄して解かずに提出するというのは、無しだなあと思うわけで。だから、彼が地球に留まる限り、またこいつの横顔を眺めて思索に耽るのも悪くないかもしれない。
群青色の海が、優しい音を立てて揺れる。其れはまるで、今のわたしの心境を素直に表現してくれてるみたいだった。



∴瞬く群青の方程式
なこさん