小説 | ナノ


 ユキちゃんといえば、たとえ都会の人混みに紛れ込んでいたとしてもすぐに見つけられそうな自己主張の激しい赤い髪とは反対に他人に対して臆病で尚且つコミュニケーション不全プラスアルファ挙動不審気味な言動と緊張からの変顔そして唯一相棒のスマフォだけが友だちといったなんともさみしい子としてわたしの頭の中にはインプットされていたんだけど、

「待てよ!」

 上記で述べた全文がユキちゃんに対して抱いている印象に他ならないとするならば、目の前でわたしの腕を引いて声を荒げているこの子は一体だれなんだろうということになる、が現実は満足に考えさせてくれる時間さえも与えてはくれないみたい。船の出港、親からの催促メール、お土産やランチ、先ほどからひっきりなしにお腹が鳴っているのは昼間だからと託つけておこう。そう考えた。
 目まぐるしい速さで情報が錯綜する中、そんな慌ただしい心中も知らずにユキちゃんはつづける。

「なんで今日帰ること言ってくれなかったんだよ!」
「ケイトさんには話しておいたよ」
「‥‥‥オレは聞いてなかった」

 知らないよ、そんなこと。ユキちゃんがケイトさんに訊いておかなかったのが悪いんでしょっていう苦し紛れの言い訳はやっぱりどう考えたって責任転嫁の他ならないし口からデマカセもいいところだ。でもわかっていながらも言ってしまうあたり、わたしは相当焦っているんだと思う。

「お前って、いつもそうだ」
「ごめんね」
「ほら!またそうやって誤魔化して!‥‥‥オレ、お前のそういうところ、きらいだ」
「‥‥‥」

 ユキちゃんの口から吐き出される「きらい」の三文字が「本当は直してほしい」と意味することを知ったのはユキちゃんがわたしの言動に対して事あるごとに「そういうところ、きらいだ」と言うということに気がついたときだった。強制的じゃなくてやんわりと促すあたりが対人との距離感を測りかねているユキちゃんらしくてついつい声を忍ばせて笑ってしまう。だからときどきその爪が深く食い込むこともあるのだけれど、その細い痛みをわたしが笑いながら堪えていることをユキちゃんはきっと知らないんだろうね。
 夏休みという大型連休を使って江の島に訪れていたわたしは、滞在期間である三日という短い日々をユキちゃんが転校する前の学校でクラスメートであったという伝手を利用してケイトさんとユキちゃんそして自称宇宙人であるハルくんが住まう一軒家に宿泊させてもらっていた。着いた早々からハルくんの常識を超越した言動には驚かされっぱなしだったけれど充実した、楽しい三日間だったと思う。本当にあっという間だった。この三日間、思えば「いらっしゃい」と言って笑いながら出迎えてくれたケイトさんは前見たときよりも生き生きとしていたように印象を受けたし、ハルくんとじゃれ合うユキちゃんはころころと表情が豊かで見ているこっちが笑ってしまうほどだった。例の変顔も健在だった。聞けば、ユキちゃんは江の島に来てからというもの、ハルくんの影響もあって釣りに大変夢中だそうで、ケイトさんが「毎日帰ってくると釣り竿を持って海に出てっちゃうのよ」と嬉しそうにユキちゃんを見送る姿、そしてやさしい目がとても印象的だった。あのいつもスマフォぐらいしか持ってなかったような脆弱な手が今は釣り竿を持っているなんて、そんな信じがたい現実を目の当たりにされて困惑することしかできず「つ、釣り、ですか?」と訊き返すのがわたしにとって精いっぱいだった。「ええ」と笑うケイトさんに挨拶もそこそこにユキちゃんとハルくんに連れられて訪れた先には先客がいた。眼鏡をかけた黒髪の男の子は夏樹、ターバンを巻いたインド人はアキラだと紹介をされた。ふたりともユキちゃんの友だちらしい。ハルくんも「ボクとユキ!それから夏樹とアキラ!4人とも仲良し!」って言っていたからたぶんそうなんだろうなって思った。「いつもユキちゃんがお世話になってます」「母親かよ!?」なんてボケとツッコミをユキちゃんと共に披露すれば、釣り竿は離さず、ふたりは肩を揺らして笑った。カラッと笑うふたりを見てきっといいひとなんだろうなって思った。それから日が暮れるまで4人は釣りに没頭していた。ただじっと海を見つめているだけのわたしに気を遣ってかはたまた共感を得たくてか横からユキちゃんが釣りについてあれこれと教えてくれていたけれどその内容はちっとも頭に入ってこなかった。興味が湧かなかったからだと思う。ふと見渡した海にはカモメが飛んでいて、今日が三日目で江の島にいられる最後の日なんだなってぼんやり考えた。明日はあのカモメのようにわたしも在るべき場所へと帰らなければならないんだ。
 今のユキちゃんにとっての在るべき場所が江の島であるように、わたしにだって在るべき場所がある。
 ユキちゃんが前の学校から転校してまだ一ヶ月と経っていないというのに、環境が人を変えたのだろうか、ユキちゃんはすっかり変わってしまった。ハルくんや夏樹くん、アキラくんと笑い合うユキちゃんを見て、その変わりようを嬉しく思う反面どこか心から喜ぶことができない自分がいることが気持ち悪かった。

「オイ!聞いてるのかよ!」
「ううん、聞いてない」

 そうやってわたしはいつもユキちゃんの反感を買うようなことばかり口にしてユキちゃんに「きらい」と言わせる。
 むかしから人付き合いはどちらかと言うと得意な分野に属していたかと思う、だから学校でも外でもわたしの周りには常にだれかが傍に居た。「おはよう」と「じゃあね」と声をかけ合うだれかがいて、ごはんを一緒に食べるだれかがいて、教室を一緒に移動するだれかがいて、帰りに道に一緒に道草を食ってくれるようなだれかがいる。わたしはそのすべてをユキちゃんだけに委ねてしまった。否、ユキちゃんの感情を引っ掻きまわして「きらい」だとその口から無理やり言わせ、委ねさせる形へと持ち込んだのだ。
 あの頃のユキちゃんといえば、話しかければ言葉を選んでいるのかもしくは緊張して声が出ないのかとにかく声を発するという行為すらできず、だれかと満足に会話をすることすら危うい状態だった。その危うさに一種の好奇心からか、心惹かれたわたしは見事にその巧妙な糸に絡まって身動きが取れなくなってしまった。

(オレ、お前のそういうところ、きらいだ。)

 思えばあれは意地悪な魔女がユキちゃんに教えた唯一の魔法の言葉だったのかもしれない。そしてその魔女の思惑通りに事は及んでしまった。それはもう取り返しがつかないほどに。

「変わってない、よな」
「ユキちゃんは随分変わったよね。てかもう泣かないでよ、男の子なんだから」
「泣いてないっ、し‥‥‥!」
「アハハ、うそばっかり」
「お、お前だってっひ、人のこと、言えない、だろ」
「うーん、そうかも」
「少し、は否定、しろっよ」
「でも、ぜんぶ本当のことだから」

 わたしがうそつきなことも、本当は無理やりにでもユキちゃんを船に押し込めて江の島から連れ去りたいことも子どもみたいにがむしゃらに泣いて縋ってユキちゃんを繋ぎ止めておきたいことも、ぜんぶぜんぶ。
 ねえ、ユキちゃん。ユキちゃんは江の島に来てからすっかり変わってしまったね。ハルくんや夏樹くんから釣りを教えてもらって、こっちの高校でたくさん友だちができて、炎天下の元で釣りをして真っ黒に日焼けをして、ユキちゃんはどんどんわたしの知らないユキちゃんになってゆく。口下手でだれかと満足に会話すらできなかったあの頃のユキちゃんはもうどこにもいないんだ。きっとその変化をケイトさんは喜ばしいことだと受け止めているんだろうね。だからあんなしあわせそうな顔をして「いらっしゃい」なんて言えたんだ。でも、ごめんね、わたしは寛容に受け止めることができそうにないや。だって、

「ねえ、ユキちゃん、どうしたら泣きやんでくれる?」
「‥‥も、もう船出ちゃったっから、さ」
「うん。ユキちゃんが引き留めたせいでね」
「ううっ悪かったって!‥‥‥え、えと、だから、さ!もう一泊‥‥してけ、ば‥‥?」

 こっちに江の島に来てからのこと、お前に話したいことがたくさんあるんだ、それに紹介したいひとも‥‥船長とかたもっちゃんとかまだまだたくさんいるし、一泊だなんて言わずにずっとここにいれば、いいの、に‥‥‥。語尾を濁して一度引っ込めたはずの涙を再び流し出すユキちゃんの言葉を胸の内で反芻していると、ここ数日間ずっと考えていた疑問が解消されたのだろうか何かがおなかのあたりにストンと落ちてきたような気がした。

「実はケイトさんにはもう一泊させてもらえるように頼んどいたんだよね」
「‥‥‥やっぱりオレ、お前のそういうところ、きらいだ」



∴口溶けアップルパイの隠し味
小鳩さん