5
長い長い悪夢の始まりは、いつだってあの日からだ。
肌を焦がす炎の熱さも、人々の悲鳴も、辺りに充満する血の臭いも、鮮明に記憶している。
『待てッ、待てよ!』
『アルフ! 駄目だ!』
幼い俺の身体は、そもそも体躯が違いすぎる魔物になんか到底敵うはずなく、いとも簡単に吹き飛ばされてしまう。それでもしつこく向かってくる俺を、魔物達が愉快そうに嗤って見下す。幼馴染は俺と同じ様に酷い怪我を負っていたが、それに構わず俺を止めようとしてくれた。これ以上当たりに行けば死んでしまうと、そう思ったんだと、後ほど語られた。
俺は幼馴染に押さえられながら、必死に手を伸ばした。
『父さんッ!!』
忘れやしない。
あの日の絶望も、憎悪も。
今も変わらず、同じ気持ちを持っているはずなのに。
(俺は、何を間違えたんだろう)
まるで、人間の様に振る舞うあの魔物を見ていると解らなくなるんだ。
俺は間違っていないと、本当の悪は魔物にあるんだと、そう思いたいのに――。
*
「こっちか」
辺りを警戒するのも忘れずに、俺達はノアが消えた方向へと急いでいた。しかし、俺の後ろを走るエイブラムは何故だか無言だ。それが余計に怖い。俺としては、俺の認識を改めてもらえればそれで良かったんだが、もしかして少し怖がらせた? ちょっと雰囲気出てたもんなぁ、つか出し過ぎた?
それでビビる様なタマではないと思っていたが、コイツをよく知っている訳ではないから絶対とは言えない。謎だからこそ、余計この無言が苦痛に感じた。いや、俺が苦痛に感じてどうすんだよ。そう思うも、一緒に旅をしてる訳だし、これ以上ギスギスするのもなぁ。
「おい」
すると急に声を掛けられた。俺は勢いよくエイブラムを振り返る。だがその目に怯えや恐怖などは見られない。どうやら、ビビった訳じゃなさそうだ。
「なんだよ」
「この森に入ってからずっと疑問に思っていたんだが……」
そう言うエイブラムの顔は、少し険しい。
この森に入ってからずっと――それは、俺も気になっていた事だ。
「魔物の姿が一切見えない事、だろ」
「ああ。森までの道中は確かに在ったのに、この森に入ってからは見ていない」
折角熾した火も無駄なんじゃないかと思う位、魔物の気配がしなかったのは確かに疑問だった。俺達の傍に魔王の息子が居たからじゃないかとも一瞬思ったが、そもそも禍物が支配する森なので、やはり関係なかった筈だ。なら考えられるのは一つだ。
「例の盗賊団か」
「恐らくな」
「だから、あの魔物を追おうと言ったのか」
「最初からそう言ってんだろ」
なに、俺そんな信用ないのか。さっきの無言も、もしかして俺を疑って観察してただけだったのか。駄目だ、やっぱりコイツもノアもよく分からん。俺に理解出来る程単純なヤツらじゃなさそうだ。
「――!」
「近いな……」
ひっそりと息を吐いた時だった。
鼻につく強い臭いに、俺もエイブラムも顔を顰めた。これは、血と肉が腐敗した臭いだ。それも獣の類で、一体や二体なんてもんじゃない。大勢殺さなければ、此処までの死臭は漂って来ないだろう。俺達は臨戦態勢を崩さず、走り続けた。臭いはどんどんキツくなっていく。
そして開けた場所に着いた瞬間、俺達は言葉を失った。
「――これは」
隣のエイブラムは、その光景をただボンヤリと眺めていた。恐らく、頭の中で状況を理解しきれないのだろう。それは、俺も同じ気持ちだ。
「酷いな」
ただそれだけを呟いた。
目の前に広がる光景、それは夥しい数の魔物の死体。それも見せしめにするかの如く、ご丁寧に宙にぶら下げて。内蔵を全て地面に垂れ流している魔物もいれば、全身の毛皮を剥がされた魔物もいた。正に酷いの一言だ。今もその死体から血が滴り落ちて、辺り一面を赤く染める。きっと凄惨な現場だったに違いない。女子供が見てなかったらいいんだけど。
「これを、盗賊団が……」
「たぶん、ヤツらの考えてた手段はこれだったんじゃね」
此処を通れば禍物が黙っていない。しかしヤツの気を引くために、ここら一帯の魔物を殺した。それを見て、ヌシが怒り狂うのを想定して。そして自分達はその間に森を抜け、あわよくば追手を怒り狂ったヌシに倒してさえもらえれば、ヤツらとしては好都合って訳だ。
「では、ヤツら予想通り、ヌシの怒りは俺達が買ったことになっているのか」
「そうなるな」
今も近くで聞こえる慟哭に、俺はどうにも遣る瀬無さを感じる。この禍物の声が、幼き自分と重なるようでどうにもそんな気持ちを起こさせる。
「これじゃあ、どっちが本当の悪か、分かりやしねぇな」
「今なんと……っ、おい、あそこに居るのは!」
エイブラムが突然声を上げ、少し離れた場所を指す。ジッとそこを見つめると、木の上に立つ黒い人影が見えた。
「ノアか」
どうやら追い付いたようだ。取り敢えず合流出来たことに安堵するも、俺達はノアの前に聳え立つ、巨大な魔物を目にして固まった。トラとゾウを混ぜたかのような魔物をトラゾウスと言うが、目の前の魔物は更にその三倍はあるだろう。トラゾウスの変異種と言ってもいいかもしれない。周りのデカイ木と、大して変わらない大きさだ。
「これが、禍物……」
初めて遭遇したのか、エイブラムが圧倒されたように呟いた瞬間、この森のヌシが木の上のノアに牙を向いた。