千里の道も一歩から | ナノ


25

 道中、俺達はただ無言で歩いた。山をまた登り、そして横道に逸れ、本当に大丈夫なのかと心配になる俺の心中を余所に、チサ先輩は黙々と足を動かす。だが時折辛そうに大きく息を吐くので、やはり心配だ。繋がれる手が、さっきより熱い気がする。
 それでも俺は止めなかった。こんなになるまで、先輩は大事だと言ったから。俺との約束が。だから、先輩の気持ちを尊重したいと思った。もし先輩が途中で倒れたら、俺が背負って山を下りてやろうと思うぐらいに。
 そして、俺が寝こけた場所から約十分は掛かったかと思う。何しろ登りが多かったから、やけに遠く感じた。ガサガサと狭い道を二人で進んでいると徐々に視界が開けて来た。微かに水の音もする。すると、何を思ったのか、前を歩くチサ先輩が徐に明かりを消した。

「え、ちょ……」

 暗いでしょうが、と言う俺の思いは、一瞬で消された。何故なら想像していた筈の暗闇がやって来なかったから。そして、俺は目の前に広がる光景に目を瞠る。

「どう?これを、翔太郎と一緒に見たかったんだ」

 そこは渓流だった。通りで水の音がした訳だ。此処が目的地だと言うチサ先輩は、辛そうに繰り返していた呼吸を整え、明るい調子で俺に問い掛けて来た。どうもこうも、初めて見たソレに俺は唖然とするばかりだ。そんな俺の様子をどう受け取ったのか、チサ先輩が少し不安そうに俺の顔を覗き込む。
 俺はそんな先輩に視線を移し、そして自分でも珍しい位に声を大にして言った。

「すっげぇよ!なに此処!」
「――!」
「これ蛍だよな!すっげ、初めてみた!」

 小さな子供の様に声を弾ませ、目を輝かせる俺に、チサ先輩が目を丸くした。けど、俺はそれよりも目の前のこの風景を、目に焼き付けたかった。さっきからすごいとしか賛辞の言葉を述べられていないが、それ以上に言葉がないのだ。夜の暗さを感じさせない、淡い光がここら一帯を包んでいる。その幻想的な光に、女じゃないけど綺麗だと言って目を輝かせるくらい、俺は感動していた。
 感嘆の息を漏らしながら、俺はハッとある事に気付く。自分のポケットに手をやり、その中にある物を引っ張り出した。そう、デジカメだ。綺麗に撮れるかは定かではないが、少しでもこの風景を持ち帰りたい。そう思った俺は、電源を入れ、そして先輩の方へ向き直る。

「あのさ先輩。悪いんだけど、写真撮っていい?」
「え、あ、うん」

 先輩に許可を貰おうと思ったけど、何で若干上擦った声なんだ?それにさっきから妙にソワソワしてる。

「チサ先輩。これ、着て」
「え?」
「んで、そこの岩んところ、あそこで待ってて」

 え、え?と戸惑う先輩を余所に、俺は着ていたパーカーを先輩の頭に被せた。すると、途端に目を泳がせはじめた先輩は「あ、う」と言葉にならない声を漏らす。俺はそんな先輩の腕を引き、座りやすそうな岩に座らせた。

「写真撮ったら山下りよ。それまでそこで大人しく座ってて」
「え、いや、と言うか翔太郎その恰好じゃ寒いだろっ」
「山登って、それにこの光景だぞ?テンションも相俟って暑い暑い」

 確かに半そでだと少し涼しいが、そんなのチサ先輩も一緒だ。風邪引いてんのに何であんな薄着で来たのか。

「ま、多少汗臭くても勘弁してよ」
「……そ、んなことない!翔太郎の匂いしかしないから、なんか、その……」

 そう言ってゴニョニョと声が萎んでいく為、結局何を言ってるのか分からなかった。俺の匂いって言われると、何か恥ずかしいな。

「まあいいや。話ってのも、帰ったら聞くよ。すぐ撮って来るから、待ってて」
「ちょ、翔太郎っ」
「――チサ先輩」

 蛍の舞う渓流に向かう前に、俺は呼び止める先輩を振り返った。

「こんな場所、あるって知らなかった。ずっと先輩、考えてくれてたんだろ?俺がどうしたら合宿を楽しめるかって」

 俺、今どんな顔してるんだか。気持ちは昂ってて、やはりいつもより声の調子も弾んでしまう。だからきっと、凄いニヤけた顔で笑ってんだろうな。そんな俺の表情がチサ先輩の目にどう映ってるのか分からないけど、それでもこれだけは言いたい。


「ありがと」
「――」
「すっげぇ今楽しい。心躍るって言うのかこれ」


 その言葉に先輩の蒼い目が、大きく見開かれた。
 謝らなきゃいけないことも沢山ある筈なのに、それよりも俺は先にこの言葉を先輩に言いたかった。変な態度とってすいませんとか、ホント色々あるのに。そして俺は、言った通り心が踊るせいか、いつもより饒舌に、そして滅多に口にしない言葉をつい口にした。


「サンキュー先輩、愛してる」


 友人に言う感じに、軽く手を振って言った。まあ友人に言う感じと言っても、友人にも滅多なことがなければ口にしない言葉だが。どうしてそんな言葉を口にしたのか分からない。ただ自然と、頭に浮かんできた。深い意味などない、ただ高揚する気分が出させたほんの軽い冗談だと思ってもらえればいい。
 俺はカメラを片手に、渓流の傍に寄る。蛍が無数に舞っていて、何処の風景を写真に収めても、素晴らしい一枚になるだろう。右を、左を。蛍たちを刺激しない様、デジカメで出来る限り写真に収めていく。


「俺もッ!」


 そんな時だった。俺の背中に、チサ先輩の声が掛けられる。先程同じく、少し上擦った様な、俺と同じいつもより調子が上がっているような、そんな声。その声の方を振り返ると、蛍の光で淡く綺麗に照らされた先輩が立っていた。幻想的とも言えるその風貌に俺は思わず息を呑む。


「俺も、愛してる!」


 思わず、目を瞬かせる。声を上げて何を言うかと思えば、まさか今のはさっきの言葉に対する回答か?だとしたら、遅すぎないか?冗談を冗談で返すなら、もう少し間を読まないと、色々勘違いすることになるぞ。
 だが、熱が上がっているのか、呼吸を乱しながら俺にそう叫んだ先輩を見ると「おせぇよ」と突っ込む気持ちよりも先に、腹を抱えて笑いたくなった。駄目だ、もうテンションが振り切れてて、今先輩が何しても面白おかしく見えてしまう。つかマジ遅すぎ、さすが天然だわ。
 腹を抱えて笑うのは我慢して、俺はニヤケる顔を抑えきれないまま、その先輩の冗談に乗っかった。


「じゃあ、俺ら両想いだ」
「――!」


 ポカンと口を開け立ち尽くす先輩に向かって、俺は「つか座ってなって」ともう一度座る様促し、再びカメラと向き合った。昂る気持ち、だけどさっきとは違い、胸の奥が凄く熱い。それが何なのか、俺はただ少しの疑問を抱くだけだった。
 そう、今日、この日までは――。





 熱い、身体が、頭が、もうどこが熱いかなんて分からない位の熱だ。

『愛してる』

 その言葉が本気じゃないことは分かってる。
 それでも、その言葉は俺が欲してやまない言葉だから。

『じゃあ、俺ら両想いだ』

 そう言って笑う翔太郎は、光に照らされているのもあって、とても綺麗だった。
 出来る事なら、今すぐ抱き締めたいぐらい。

(――愛してる)

 もう一度、今度は心の中で唱える。
 本当は、今日この場で伝える筈だったのに。冗談じゃなくて、本気で。けど、あんなに楽しそうにはしゃいで、目を輝かせる翔太郎を見せられたら、その気持ちを途切れさせたくないと思ってしまった。まさかこんなに喜んでもらえるなんて。
 岩に座り込み、真っ赤な顔がバレない様、膝を抱えて顔を伏せると、翔太郎の匂いに包まれる。それだけで体温が見る見る上がっていくとか、これじゃあまるで変態だ。

(伝えたい、けど)

 今日は、今日だけは今この幸せな瞬間を味わっていたい。
 このいつまで続くか分からない幸福感を味わっていたんだ。
 だから、今日はその背中に向けて、何度でも言おう。


「好き、愛してる」


 小さく囁いた言葉は、沢の潺に静かに溶けた。
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bkm