千里の道も一歩から | ナノ


16

「クシュッ」

 何とも可愛らしいクシャミが、静かな朝の空に響いた。

「あっはは……マジですいません」
「いや、大丈夫」

 笑い飛ばすことも出来ず、鼻を擦るチサ先輩に、今日何度目か分からない謝罪をした。
 朝起きて先輩がベッドから落ちてたのは、やはりと言うか何と言うか、俺の寝相が原因だったらしい。特に足が動き回るらしい俺が、冷える朝方に思い切りチサ先輩をベッドから突き落としたせいで、先輩は朝から鼻水が止まらない。もしかしなくても、これ風邪ひいたんじゃね?

「俺、ホント寝相悪くて……だから、家族以外とはあんま近くで寝ないようにしてるんスけど……」
「家族?」
「まだ小さい妹が居て、そいつなら俺の足の餌食になることあんまないんですよ」

 恐らくは小さいからだろう。よく寝付けない妹と一緒に寝ていたが、朝起きてもぴったりと俺にくっ付いていて蹴とばされたことはない。

「……あの、さ」
「はい」
「どうやって、妹さん寝かしつけるの?」

 少し言い淀んだ先輩が、頬を赤く染めながらそんな事を聞いて来た。けど俺はその質問には答えず、素早く先輩の額に手を当てた。

「っ、翔太郎?」
「先輩顔赤い。それにやっぱ少し熱い気がする」

 うーん、自分の額と比べてみてもやっぱり熱い気がする。それに先輩どんどん顔赤くなってくし、これ悪化してるよな。あんま詳しくないけど、取り敢えず今日は大事をとって寝た方がいいんじゃないか?

「先輩、俺のせいだから何だけど、今日は大人しく寝てた方が――」

 そこまで言って俺は、先輩の顔を見て思わず固まる。固まった俺を見て、先輩が不思議そうに首を傾げた。

「……翔太郎?」
「なんか先輩、表情がエロいよ」
「えっ!?」

 俺の発言に驚いたチサ先輩が声を上げる。気付いていなかったのか、自分の顔をペタペタと触って確かめている。いや、つか自分で触っても分かんねぇだろ。

「エ、エロいってどの辺が……ッ」
「え?いや、何か頬赤いし少し息乱れてるし、何つーの?色気ヤバいって感じ」

 元々声やら醸し出す雰囲気とか色気あるけど、今日の感じはそれらを更に倍増させている。思わず男の俺でもドキッとするぐらい。まあ言ってしまえばそれ程具合よくないって事だよな。

「良かった……俺の欲望だだ漏れしてるのかと……」
「え?」
「い、いや、何でもない」

 慌てて首を振る先輩。笑って誤魔化してる感凄いけど、今はそれよりも先輩の体調が第一だ。

「あ、ほら。あそこが俺のロッジ」
「随分と俺らのロッジから離れてるんですね」

 周りに他のロッジがあまりない所まで来て、漸くみえてきた本来先輩が泊まるロッジ。この時間だからか、まだ皆起きてくる気配がない。先輩目立ちそうだし、友人に見られたらどうしようとか思ってたけど、流石に考えすぎか。だってまだ五時ちょっと過ぎだし。誰とも会わずに済みそうだ。
 そしてもう直ぐロッジに着く、その時、横道から人が歩いて来た。


「あ」
「え」
「げ」


 まあそんな事を考えてると、不思議なモノで誰かと出くわすんだよな。それも厄介なヤツに。俺達は顔を見合わせるや否や三人揃って違う声を一斉に上げた。因みにげって言ったのは俺ね。

「秀樹……」

 先輩が少し表情を硬くして、ばったり出くわした人物の名前を呟いた。相手もまさかこの時間に誰かと出くわすとは思わなかったのか、目を丸くさせ俺達を見ていた。

「あはっ、え、マジ?」

 驚いたのは一瞬で、久し振りの会った長谷川秀樹はすぐに笑みを浮かべ、まるで噂好きの女子の様な反応で俺達二人を交互に見た。

「もしかして、もう付き合ってんの?」
「はあ?」
「――ッ、秀樹!」

 先輩が急に声を上げた。しかし長谷川秀樹は気にした様子もなく、チサ先輩を見てニヤニヤしている。つか、『もう』ってなんだよ。言葉のチョイス間違ってんだろ色々と。

「だって二人で朝、こんな静かな時間に会ってるなんて、今まで何してたのかな〜」
「そ、それは……」
「寝てた」
「えっ」

 俺は先輩よりも一歩前に出て、堂々とその言葉を口にした。だって別に隠す様なことでもない。本当に寝てただけだし。寧ろコイツは、こっちが狼狽えれば狼狽える程面白いと言わんばかりの顔をするから尚更。正直に話した方が絶対にいい。

「ひゅー。結構大胆だねぇ、翔太郎は」
「秀樹、お前……」
「そんな怖い顔で睨まないでよちーちゃん。名前呼ぶ位許してよー」
「……アンタがどんな想像してんのか知らないけど、嘘は言ってない。俺も先輩も事情があって同じ部屋で寝てた。ただそれだけッス」

 そう言って俺は、先輩の手を掴んで先輩のロッジに行こうとした。けど、それだけで引き下がってくれる相手ではないようで、長谷川秀樹は俺の進行方向に立ちはだかった。

「ちょっとー、まだ話は終わってないよ?」
「悪いんですけど、チサ先輩具合悪いみたいなんでそこ退いてくれます」
「んー」

 苛立ちを隠せずそう言うと、長谷川秀樹は笑みを湛えたまま、俺の後ろに立つ先輩へ視線を移す。そしてプッと小さく噴き出した。

「何が可笑しいんだよ……」
「いやいや。まさかチサトのそんな姿が見れるなんてねぇ。ほら、翔太郎が腕を掴んだだけでもうそんな顔しちゃうんだよ?」
「は?」
「――!」

 長谷川秀樹の言葉に、俺は思わず訝しげな顔をしてしまう。意味分かんねぇ。俺が腕を掴んだだけでなんだって?
 どんな顔をしているのか気になって、俺は後ろを振り返ろうとした。その瞬間、パシッと先輩の腕を掴んでいた俺の手に衝撃が走る。別に痛くない。けど何が起きたのか分からず目を瞬かせる俺の目には、俺以上に驚いているチサ先輩が映った。

「えっと……」
「あ、翔、太郎……ごめんっ、今のは!」

 いきなりの事で二人して動揺していたせいか、上手く言葉が出ない。つか、漸く状況が掴めてきた。俺、先輩に手を払われたのか。なんでだ?単純にその疑問だけが浮かんできた。今までだって先輩の腕を掴んだことはある。それでも今日みたいに振り払われることはなかった。なのに、なんで?
 けど、そんな俺の疑問は案外早く解決した。


「――千里?」


 いつの間にロッジの部屋から出て来ていたのだろう。転入生と甲斐先輩が、ロッジ目前で立ち止まる俺達を見て不思議そうな表情をしていた。けど、俺はその転入生を見て何となく思ってしまった。


(ああ、こいつに見られたくなかったからか)


 確信がある訳ではない。だって本人から聞いたわけじゃないから。でも、それだと先輩の行動に納得がいく。けど、何だろうな。
 胸の奥が、少しざわついた。
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