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(バイバイ、弥一)
そう言って、穏やかな表情で手を振る少年を、弥一は知っている。
そして、手を伸ばしても、どんなに声を掛けても、もうその少年には届かないと言う事も。
それでも、諦められず手を伸ばすのだ。
待って、行かないで!
――綾太ッ!!
*
勢いよく飛び起きた僕は、目の前に広がる光景に呆然とする。確かに自分は屋上に居た筈。それなのに、今自分が居る場所は、間違いなく保健室だ。
「何で此処に……」
「良かった、起きた」
その声の主を見て、僕は全てを悟った。
ああ、この人が此処まで運んでくれたんだって。
「――悠生様」
「目を閉じたまま起きないから心配したよ。待ってても全然起きないしさ。もう体育祭終わっちゃったよ」
三鷹くんに見てもらいたかったな、リレー。
そう言って残念そうに笑う悠生様に、僕はかける言葉が見つからず、思わず顔を俯かせた。
「うそうそ、冗談だよ。はい、お水」
沈んだ僕を見て、慌てて悠生様がフォローしてくれるが、僕は違うんですと静かに首を振る。そうじゃない、そうじゃなくて。
「何が違うの?」
「……自分の身体を、自分で動かせるのが、こんなに辛いことだなんて……っ」
「え?」
ボロボロと涙を零し泣き出す僕を見て、悠生様が慌ててハンドタオルを差し出してきた。でも僕はそれを受け取らず、膝を抱えて毛布に顔を押し付けた。
「もう、声もしない。存在も感じないっ」
「……」
「どこにも、いないんだッ」
自分の身体が自分で動かせる。そして、もうその人の存在を感じられない。
それが意味することをこんなにもこの身に思い知らされ、僕は歯を食いしばる。
「どうすれば、良かったの!?」
どうすれば、お前が消えずに済んだ?あんなに時間があったのに、僕は消えると言うその意味をちゃんと理解していなかった。もっとその意味を考えて行動しておけば、アイツが傷つくことも無かった筈だ。
「そしたら最後、あんな無理して笑うことなかったのにッ」
きっと僕に心配や後悔をさせないようにとか、そう言う考えだっただろう。馬鹿なアイツが考えそうなことだ。最後の最後まで人のことばっか。それなのにあんな顔で笑って……お蔭で僕は後悔の思いで胸が一杯だ馬鹿野郎ッ。
「三鷹、くん?大丈夫?」
一人取り乱す僕を見て、悠生様は僕の様子を窺うように声を掛けて来た。
「悠生、様……」
「な、何だか懐かしいね、その呼び方」
この間もそう呼んでたっけ。
ね?と僕に同意を求めてくる悠生様に、僕は小さく首を縦に振る。
「はい。僕は、貴方をそう呼びますから……」
「……」
「一つ、聞いていいですか?」
何?と返ってきた言葉は震えていた。
悠生様は聡いお方だ。だからもう、何でそんなに自分が震えているのか分かっているかもしれない。そして今から僕が言おうとしていることは、きっと悠生様にとってはとても酷な事だ。でも、このままではいけない。このまま何もなかったかのように生きてなんて行けない。僕も悠生様も、そこまで強くないよ。だから、ごめん綾太。
「僕の、何処が好きですか?」
僕の真剣さに釣られ、悠生様まで顔が真顔になる。そしていつも綺麗なその目が不安で揺れた様に感じた。でもそれもほんの一瞬のことで、すぐにその真顔を崩し、悠生様は困ったように笑った。
「馬鹿みたいに、真っ直ぐなところかなぁ」
「……はい」
「それに、凄く言葉に力があるんだ。いつもそれに背中を押される。だから一緒に居て楽しいし、凄く心が温かくなる」
「……」
「見てて飽きないんだ。だから、かな?こんなに惹かれてやまないのは」
「……そうですか」
分かっていた。けど、やっぱり本人の口から聞くと更に虚しい気持ちになる。この人の心に、自分は全く存在していないのだから。
でも、今の僕にはその答えだけで十分だ。嘆いている暇はない。
「何で、そんな事聞くの?」
悠生様が問い掛けてくる。笑ってはいるが、その目は確かに不安げに揺れていた。
僕は、今一度その不安に揺れる瞳をジッと見つめ返し、そして静かに話し出す。
「突拍子もない話をしてもいいですか?」
「え?」
「僕と、後もう一人」
これは、貴方が知らなくてはいけない事だから。
だから、僕が辛くても、貴方が辛くても、話します。
「馬鹿みたいに真っ直ぐな少年」
僕が知る、全てのことを。
「"香坂綾太"との、不思議な共同生活の話を――」
貴方に伝えます。
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bkm