伝説のナル | ナノ


15

「ひっぐ…痛いよぉ…!」
「泣くな。立て」
「うぇえ…ッ、無理、だよ…もう、痛いっ…!」

 わんわん泣くその人は、身体こそ小さいが間違い無く那智先輩で、その先輩の前に立つ幼い少年もまた間違いなどではなく、凪さんその人だ。俺は二人の様子を直ぐ傍で見守る。二人は俺に気づいていないみたいだ。それもそのはず、これは記憶の世界だから。

「ならそこで好きなだけ泣いてろ」
「うっ、え、兄ちゃ…ッ!」

 泣き続ける那智先輩に背を向け、冷たくそう言い放った凪さんがその場を離れる。その後ろ姿を見て、先輩は余計に泣き出してしまった。思わず、記憶だと分かっているのに先輩に手を伸ばしてしまいそうになった。痛いと言いながら泣く先輩の膝からは擦りむいたのか、血が滲んでいる。

『キミが行っても無駄だよ。これは記憶だからね』
「はい…」

 改めてレイさんに言われるが、やはり心配だ。どうしようもないと分かっているのにどうにか助けたくなる。俺は広い庭で一人泣き続ける先輩の傍にただこうやって見ていることしかできないのか。自分の情けなさに拳を強く握る。
 とその時、凪さんが去っていった方から誰かがやってくる足音が聞こえてきた。誰だろう…振り返り、その人物を確認する。そこに現れた人に、俺は胸が熱くなるのを感じた。

「――那智、膝出せ」
「ひっ、ぅ…凪兄、ちゃん…ッ」
「もう泣くな」

 呆れ顔の凪さんが手に救急箱を持って戻ってきた。ボーッと凪さんを見上げる先輩の前で膝を折ると、テキパキと傷の応急処置を済ませる。いまいち状況が分からない先輩は、嗚咽まじりに凪さんの名前を呟いていた。
 そして処置の終わった先輩の前で立ち上がると、彼は先輩の手に何かを落とした。ポトリ、先輩の小さな手のひらには小さな飴玉が収まっていた。

「踏み込みも甘いし、足元ががら空きだ。さっさと直せ」
「ぅ…」
「まあけど、剣筋は今までで一番良かった」
「えっ…?」
「及第点だ。それはその褒美」

 そう言って笑う凪さんは、やはり変わらない。今と同じ、優しいままだ。そんな凪さんを呆けて見ていた先輩は、小さな飴玉を握りしめ、凪さんに飛びついた。目に涙を浮かべながらも嬉しいのか、笑っている。とても幸せそうに。
 先輩、見て下さい。先輩の頭を撫でる凪さんの表情は、とても先輩を憎んでいるようには見えないし、絶対そう思っていないと思う。地位とか居場所とか、俺にはよく分からないけど、でも少なくとも凪さんはそんな事で先輩を憎んだり恨んだりはしない。そう見えるんだ、彼の表情を見ていると。

「凪お兄ちゃん!」
「なに」
「俺、兄ちゃんみたいになる!んで、あの子を守れるぐらいに強くなる!」
「そうかよ…なら、まずはあいつに認めてもらわないと――」

 凪さんの言葉を最後まで聞くことは出来ず、ザザザッと砂嵐のように風景が消えていく。あっと言う間に二人の姿も見えなくなった。突然の事に慌てる俺に『大丈夫』となにやら落ち着いた様子のレイさん。
 それを見て、少し冷静さが戻った。

『黒岩家は一族の再起の為、子供にはかなり厳しい指導をしてきたらしいね。特に那智クンは期待度が違っていたから、より一層厳しかったと思う』
「そう、なんですか…」
『けれど、彼はそれを見過ごせなかったようだね。皆が見て見ぬ振りをしてきた那智クンへの指導。それを彼――凪クンが買って出たようだ。けれどあの幼さで、既に大人をも凌駕する力を持つとは……』

 そこで言葉を切ったレイさんを不思議に思い、ふと横目で見る。その目が何処か冷たく眇められている様な気がして、思わず「レイさん…?」と問い掛ける。俺の声にハッとし、俺を見たレイさんは、いつもと同じ、落ち着いた声で何でもないよと言ってまた羽を羽ばたかせた。

『さあ、次々に記憶が流れてくるよ。見逃さないで』
「は、はい」

 何だったんだ。俺の気のせいだったのか?
 少し心臓が嫌な音を立てる。しかし、そんな俺の心情など理解されることなく、記憶がどんどん目の前を流れていく。まるで走馬灯のように。って、走馬灯を見たことがあるわけじゃないけど。
 次々に俺達の前を過ぎる記憶の中の先輩がいくら大きくなった気がする。そう言えば、先程記憶の中に誕生日の風景が映し出され、その時先輩は四歳を迎えた様だった。最初に見た先輩がいくつだったのかは分からないが、この先輩は今四、五歳ぐらいになるのかも。


「――おい!凪ッ!那智ッ!」


 そう思っていた時だった。とても聞き覚えのある、でも何処か若さを感じさせる声が響く。そこに映し出される風景に、俺は目を見開いた。だってそこに居たのは、俺のよく知る人。驚かない訳ない。

「え…剛、さん?」

 だって、学園長――俺の伯父さんが、幼い二人の前に仁王立ちしているのだから。理解が追い付かず、俺は頭を抱えたくなった。何で、剛さんが凪さんと那智先輩の前に…?
 確かに凪さんと剛さんは繋がっていた。那智先輩だって剛さんを知っていた。けど、何でだろう、俺には那智先輩が剛さんを昔から知っているようにはとても見えなかった。凪さんの上司みたいなものだから一緒にいるとばかり思っていたのに。一体、どういう事なんだ。

「何だよ」
「もうお前らあいつに会うの禁止な」
「ぅえ!何で!?」
「何でだぁ?んなの、お前らが来ると泣くからに決まってんだろ!」

 鬼の様な形相で怒鳴る剛さんは、今より全然若い。いや、今も若めなんだろうけど、恐らく二十代前半と言ったところか。そんな剛さんを、凪さんが不満そうに睨む。那智先輩はその言葉に泣きそうだ。

「大体凪!お前は仏頂面過ぎる!前は物心つく前だったからいいかもしれんが今は駄目だ!んで那智は泣き過ぎ!あいつが釣られて泣く!」

 ビシッと二人を指差し、剛さんは言い放った。先程から気になっていたが、『あいつ』とは誰の事なのだろう。

「…チッ。ならどうすりゃいい」
「んなの決まってんだろ」

 そう言って剛さんは那智先輩に近付き、今にも泣きだしそうな那智先輩の両頬をムニッと掴み、上にグイッと持ち上げた。「ぶえっ!」と那智先輩が変な声を上げる。

「こうして笑ってろ。いいか、あいつの前で少しでもそんな仏頂面と泣きっ面見せてみろ。もう会わせないからな」
「っ、うん!」

 真剣な想いが伝わったのか、那智先輩が強く頷く。剛さんがそれを見て、両頬から手を放す。少し赤くなった頬を涙目で摩りながらも、先輩は笑った。ヘラリと。ああ、この笑顔……いつもの先輩の顔だ。
 そして、剛さんは凪さんに目を向ける。少し困った様に眉を下げていた凪さんだったが、徐々にその表情を変えていく。ニコリ。ああ、これもだ。まだ何処かぎこちないけど、いつも凪さんが浮かべているあの表情だ。
 二人が普段から浮かべている笑顔……こんな前に作られたのか。その誰かの為に。

「二人して胡散臭い笑顔だが、まあいいか」
「ぶっ飛ばすぞ」
「へいへい。いいから行くぞ。あいつらが待ってる」
「お、れ。ちゃんと笑うから、笑ったら、泣かないで、俺の事好きになってくれるかな?」

 踵を返す剛さんの裾を掴み、先輩は不安げにそう漏らす。その誰かに、嫌われてるのか?

「別に嫌ってねぇだろ。ただお前に笑ってほしいだけだと思うぞ。お前いつも泣くから」
「え、そ、そうなの?」
「ああ。それに凪はいつも無みたいな顔してるから元気ないのかって心配なんだと思う。あいつは優しいからな。この俺に似て!」
「はあ…アンタじゃな――て…に……」

 ザザザッと、凪さんが呆れながら何かを言おうとした所でまた風景が消え去る。何でこういい所で切り替わるんだ。今の凪さんの言葉、何だか聞いておきたかった。残念と言う俺の気持ちが伝わったのか、レイさんがクスリと笑ったのが分かる。

『今はまだ…早いよ』
「え?」
「今はただ彼を追う事だけ考えればいい。余計な事は知らなくていいんだ」
「レイさん?何言って……」
『ほら、彼の核心部分だ。よく見ておくといいよ』

 レイさんの言う意味を知りたくて問い掛けるも、また話を逸らされる。だが釣られて移した視線の先、那智先輩が凪さんに嬉しそうに笑いながら駆け寄っていく風景を見た瞬間、俺の思考回路は完全に停止した。もう、考えが追い付かない。

「え、は?」

 凪さんに嬉々として話す先輩の左首筋。俺はそこに目を奪われた。だって、だってアレは――。

『そう、彼はもう自身の夢を叶えているんだよ。ガーディアンになると言う、夢をね』

 大樹と同じ、ラグーンの紋様がそこには刻まれていた。
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bkm