伝説のナル | ナノ


33

 あの部屋から出た俺は、ただひたすら重力に任せて落ちていく。そして一瞬視界が真っ暗闇になったと思った次の瞬間にはもう、俺の身体は外に吐き出されていた。ドスッとなにかの上に落ちたお陰か、思ったよりも痛くない。仰向けのまんま落ちてきたので天井を見る形になるわけだが、この景色には見覚えがある。と言うか此処、さっきまで居たあの地下室じゃないか。
 レイさん、突然の割にちゃんと部屋に帰してくれたのか。まあ、その方法の荒さはどうにかして欲しいが。それにしても、先程の言葉が気になって仕方がない。

「父さんに似てるのか、俺…」
「まあ、確かに宗介くんは浩幸さんに似てますね」
「え?」

 俺の独り言に、何故か下から返答があった。ムクリと身体を起こし下を見ると、凪さんと目があった。え?目があった…?

「っ、うわ!す、すいません!」

 慌てて凪さんの上から退く。俺の考えに間違いがなければ、俺は凪さんの上に落ちたのだろう。だからあんまり痛くなかったのか。いや、でも凪さんは確実に痛かったはずだ。自分とあんま変わらない大きさの男が降ってきたのだから。と言うか何で此処に凪さんが?あわあわと慌てる俺を、身体を起こした凪さんが無表情に見つめる。ああ、そう言えば俺は凪さんを怒らしたままだった。

「何処へ行っていたんです?貴方の謹慎はまだとけていませんよ」
「す、いません…」
「俺が救急箱を取りに行って、それから他の用を済ませて一時間ちょっと…急に貴方の気配が消えたので来てみればいつの間にか居なくなっていて驚きです。外の見張りも気付かなかったみたいですし」
「え、一時間…!?」

 そんな馬鹿な。俺がレイさんと話して、精々二十分経つかどうか。一体、どう言うことだ。そんなに時間は取らせないと言っていたのに。

「それに…」
「っ…!」
「額の傷、消えていますね。誰に治してもらったんです?」

 凪さんが俺の前髪を上げ、まじまじと額を見ながら言う。額の傷とは何だろう。分からず眉を下げた俺に気付いたのか、凪さんが「土下座で打ち付けた額ですよ。血が出ていたでしょう」と呆れたように言った。
 確かに痛かったがまさか血が出ているとは、気付かなかった。ああ、だから救急箱なのか。凪さんの横に置かれた救急箱を見てぼんやり思う。そして、去り際のレイさんを思い出す。ああ、もしかしてあの額へのキスは俺の傷を治してくれたのか。考えられるのはそれしかない。

「この学園で治癒の能力を持つのは、光の属性を持つ晃聖と保険医位だったはず…。けど今アイツは家の仕事で此処に居ないし、ましてや此処を出て晃聖や保険医に会うことも出来ない。宗介くん、貴方は誰と会っていたんですか?」
「そ、れは…」

 先程の事を言おうとして、ピタリと止まる。最後にレイさんは言った。内緒だよと。不思議と、その言葉に逆らう気は起きなかった。けど、凪さんに隠し事をしたくないと言う思いもあり、俺はただ視線をうろつかせるしか出来なかった。そんな俺に、痺れを切らしたのか、凪さんが舌を打つ。

「俺に言えないんですか」
「……ごめん、なさい」

 凪さんの声がワントーン下がる。ああ、また彼を不快にさせてしまった。これじゃあ嫌われたも同然だ。凪さんの顔が見れず、思わず顔を俯かせる。ハアと大きくため息をついた凪さんが徐に立ち上がった。完全に呆れられてる。そう思った瞬間、「宗介くん」と頭上で声を掛けられた。

「俺は怒っているんですよ」
「……っ」
「確かに言いたいことは言えと言いましたが、自分を犠牲にするそのやり方は気に入りません」
「え…?」
「那智と大樹くんを助けたい貴方の気持ちは伝わりました。しかし彼らのやった事は彼らが責任を負わないといけません。大本の原因が何であれ、ね」

 未だに顔を上げられずにいる俺の前に、再び凪さんが膝を折ったのが分かった。

「けど、貴方にあそこまで頭を下げられてその意志を蔑ろにするほど、俺は貴方に無関心ではありません。今回だけ、貴方の願いを聞き入れました」
「凪さん…」

 優しい声に面を上げると、そこには優しげに微笑む凪さんの姿が。ああ、いつもの優しい凪さんだ。それが嬉しくて目頭が熱くなる。

「まあ、あれだけの騒ぎを起こし、多くの生徒に目撃されているのに全てを不問には出来ませんので、貴方を此処に連れてきたわけですが…それも今日の夜までです」

 その言葉に目を見開く。俺の謹慎がこんなに早く解除されるなんて思ってもみなかった。てっきり体罰を受けると思っていた俺に凪さんは、宗介くんにするわけないでしょうと笑って返した。そして外に立っていた見張りに声を掛けた凪さんは、束になった用紙を受け取り、俺の前に翳す。これは、作文用紙?

「何ですか、これ」
「この一時間で俺が書かせた反省文です」

 え…と思わず声が漏れる。凪さんから受け取った束は三つあり、それぞれ名前が書いてある。高地大樹、黒岩那智、そして日比谷尚親。再び、ええ…と声が漏れた。

「宗介くんを助けたかったらこの一時間死ぬ気で書けと言ったら、素直に書いてくれましたよ。まあ那智はダメージが大きいのか本当に死にそうな字体ですが」
「な、なんで日比谷さんまで…」
「尚親はプライドが天より高いヤツですからね。風紀委員長のくせして傍観者を気取って、剰え貴方に助けられるなんて…アイツにとったらプライドが許さないのでしょう。渋い顔しながら書いてましたよ」

 まあ、一時間の割に三人ともちゃんと書けていますね。そう言って凪さんは何だかスッキリとした顔で笑う。俺はもう一度作文用紙を見る。きっと急いで書いたんだろう。几帳面な字体の大樹でさえ、かなりの悪筆具合となっている。でもそれが堪らず嬉しい。俺、お前に謝れてもいないのに。何処までも優しいな、大樹。那智先輩も、あの時意識が朦朧としていたのに態々俺のために書いてくれた。
 作文用紙を握りしめた俺を見て、凪さんがポンと俺の頭に手をのせた。

「何だか意地悪したみたいになってしまいましたね。先程からまた泣きそうだ」
「俺、凪さんに…嫌われるようなことばっかりして…」

 俺の小さな呟きに、凪さんはキョトンとした顔で首を傾げた。

「特にそう感じたことはありませんが?ただ自己犠牲が気に入らなかっただけで」
「でも、俺、凪さんに話せないこともあるし…」
「ああ。それは確かに、貴方が誰を庇って黙っているのか分からなくて気に障りますが、宗介くんを嫌いになるなんて事はあり得ません」

 その言葉に再び目頭がカアと熱くなる。それと同時に胸も痛んだ。でも、と絞り出すような俺の声に、凪さんは黙って続きを聞いてくれた。

「俺、怖くて…耀が大樹の傍に居るのも、凪さんに嫌われるのも、全部怖くて、嫌なのに…俺は何も言えないんです…だから…」

 だから、俺はズルいんだ。凪さんなら嫌いになるはずないと言ってくれると、自分が安心したいが為に、態々あんな事言ったんだ。弱くて、何処までも醜い自分。性格が悪いなんて、耀に言えたもんじゃない。俺の方がよっぽど性格が悪い。
 また顔を俯かせた俺に、凪さんは何を思ったのか、グニッと俺の両頬を掴む。けど掴むと言っても本当に軽くだ。全然痛くない。

「仕方ないですよ。それが今の宗介くんなんです」
「……っ」
「誰だって、嫌われるのは怖い。大切な人を奪われるのは怖い。でも、それを感じる事が出来ただけ一歩前に進めたじゃないですか」

 今度はすっぽり俺の頬を包む凪さんは、優しく目を細め、俺の安心する笑顔を見せてくれる。

「以前の貴方なら…全てを諦めていた貴方なら、そこまでの考えには至らない筈ですよ」
「そ、れは…」
「まあ、まだ壁は取り切れていませんがね。深く食い込まないのはそのせいでしょう」

 先程レイさんが言っていた言葉が過る。もしかして、あの時レイさんが言いたかったのはこの事か…?俺が人の深い事情まで聞かないのは、相手は勿論自分も傷つきたくないから。何を言っても答えが返ってこないと思い込んでいる俺は、結局何も言えずただ考えを放棄するだけ。そのことさえ、人に言われないと気付けないなんて、やっぱり俺は何かが欠けているんだろうな。欠陥品と耀に罵られた記憶がフと甦って来る。

「けど、変わりたいんでしょう」
「何でそれを…!」
「分かりますよそれ位。大丈夫。ゆっくりでいい。もし貴方がまた道を間違えても、俺が正してあげます」

 ――だから、どうか怖がらないで進んで。
 その優しい言葉に、俺は何度救われるんだろう。ただ必死に首を縦に振る俺に、凪さんが小さく笑った。
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bkm