伝説のナル | ナノ


30

 それから俺は女中さんに連れられ、朝食が用意されている部屋へと向かった。広く静かで、どこか物悲しささえ感じるこの日本家屋は、凪さんが冥無に行く前まで住んでいた離れらしい。今は弟の那智先輩が使用しているらしいが、朝だと言うのに既に那智先輩の姿も離れにはなかった。昨日会った不審者が自分の家に居ると知って逃げたのだろうか。そうだとしたら凹む。
 部屋に着くと既にそこには朝食が並べられていた。そのまま案内された席につき、どうぞと促されるまま、俺はいただきますと挨拶を口にする。目の前に並べられた美味しそうな和食の匂いに、お腹の虫が盛大に鳴った。五感を感じられると言う事は、やはり此処は幻覚の類ではないのだろうか。考えていても仕方ない。取り敢えず、折角用意してくれた食事だ。食べてしまおう。
 そう思って食事を口にしたのだが、見た目通り、いやそれ以上に美味しかった。食べ進める箸を休める事無くそのままあっと言う間に食べ終えてしまった俺を見て、女中さんが余程お腹が空いていたのねと暖かい目をして笑っていた。どうしよう、凄く恥ずかしい。

「お客様、今凪様に連絡を取っているのですが、任務中な為繋がらなくて……」

 食べ終わった俺は、最初に寝起きした部屋へと再度連れて来られ、申し訳なさそうな女中さんからそう告げられた。どうやら凪さんは既に仕事中らしい。まだ学生服を着ていたのに、もう番人として動いているのか。凪さんとの力の差を感じ、感動もするけど本当に追いつけるか不安にもなる。そんな凄い人に、俺はさっき山で挑んでいたのか。まああの時は、日比谷さんの事で頭が一杯だったから仕方がない事なんだけど。

「あ、いえ……あの、もし凪さんに繋がったら、お世話になりましたと伝えて下さい」
「え?お客様はどちらに?」
「捜してる人が居るので、もう行かないと……あ、お礼は必ずします。今は無理ですけど……必ず」

 そう言って頭を下げれば、女中さんは穏やかに笑っていた。

「そうですか。ですが、凪様からは必ずこの離れに戻ってくるように伝えてくれと言伝を預かってます」
「え?」
「いつでも帰りをお待ちしています」

 その言葉に目を丸くする。「え、でも」と言葉を濁すも、女中さんはもう一度、帰りをお待ちしていますと笑顔だ。とてもお断りが出来る雰囲気ではない。勿論気持ちは嬉しいのだが、今の俺をこの離れにおいても凪さんには何のメリットもない筈なのに。凪さんはやっぱり優しいな。
 俺は涙ぐみそうになり、グッと唇を噛み堪える。今度は「行ってきます」と頭を下げれば、やはり女中さんは穏やかな表情で「行ってらっしゃいませ」と同じように頭を下げた。





 凪さんの離れを後にした俺は、道を教えてもらい昨日の公園に足を運んだ。途中何度か道に迷い、その度に誰かに道を尋ねながら漸く着いた公園。辺りを見渡すが、人気のない公園には、やはり何も手掛かりらしい手掛かりはない。
 昨日の黒衣の人物は一体何者だったんだろう。執拗に小さな日比谷さんを狙っていたように見えた。でも、あの人が何故日比谷さんを狙っていたのか、それが分かれば、全てつながる様な気がした。あの黒衣の人物が、全てのカギを握っている様な、そんな予感がする。まああくまで俺の根拠のない予感だし、あの危険人物に接触する前に日比谷さんが見つかればそれに越したことはないんだけど。
 だが当然のことながら黒衣の人物はいない。日比谷さんもいない。これからどう追っていけばいいんだろう。ベンチに腰掛け、頭を抱えるも、何も浮かんでこない。足りない頭で必死に思考を巡らせていると、不意に足元に影が差す。

「大丈夫?具合悪いの?」
「あ、君は……」

 顔を上げて目を見開く。目の前に立っていたのは、昨日会った宵さんだった。頭を抱える俺を、心配そうに見下ろす。確かに頭を抱える人が居たら、傍から見たら具合悪い様に見えるよな。

「ごめん、大丈夫」
「ホント?昨日ぐったり倒れてたから……」
「え?」

 その言葉に驚く。話を聞くと、どうやらいつまで経っても戻らない俺達を捜した宵さんは、公園で倒れていた俺を見て大層びっくりしたそうだ。

「尚親も心配してたよ」
「え、日比谷さんが?」

 俺は魔導を発動させた後のことをあまり憶えていない。でも、話を聞く限り小さな日比谷さんは無事だったらしい。迎えに来た宵さんと帰って行ったと聞き、ホッと胸を撫でおろす。

「うん。それに……」

 不意に、そこで言葉を切った宵さんは、少し、ほんの少しだけ頬を紅くさせ笑った。その表情が、何かを想う様な眼差しに、俺は目を瞠った。


「凪君が、君を抱えて離さなかったから」


 ――あんな姿、初めて見た。
 そう宵さんが柔らかく呟いた直後、俺は昨日顔を真っ赤にして宵さんへの好意を示していた小さな日比谷さんを頭に浮かべた。二人の反応に違いはあるものの、その瞳の奥で揺らぐ感情は全く同一と言っていいだろう。
 これは、もしかして――。

「宵さんは……」

 そこまで口にして、ハッとする。
 危ない、昨日と同じ過ちを犯すところだった。何でも思った事を口にしてはいけない。昨日の小さな日比谷さんを見て学んだことだ。こほん、一つ咳ばらいをして、俺は違う話題を振る事にした。

「えっと、凪さんと知り合いなんですか?」
「え!?」

 無難な質問をしたつもりなのに、宵さんの反応は俺の想像したものと違った。ほんのり頬を染めていた紅が、より濃くなった。あわあわとどこか慌てる様子の宵さんは、手を前に突き出し首を横に振る。

「し、知り合いだなんてそんな!ほらっ、凪君有名人だし!」
「そ、そうなんだ?」
「だだだって冥無の番人だよ!?知らないの!?凄いでしょ!?」

 そう言って距離を詰めてくる宵さんの圧に、俺は始終押され、コクコクと首を縦に振るしかなかった。息が切れるほどの怒涛の凪さん褒めが終わり、宵さんは冷静になったのか、何処か気恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。昨日はほんわかしていて、どちらかと言うと日比谷さんとの会話では余裕さえ見られたのに、今目の前に居る宵さんは、年相応の女の子と言う印象だ。

「ご、ごめんね。何かつい熱くなっちゃって」
「ううん。俺の方こそ、あんまりよく知らないから……色々聞けて、ちょっと嬉しかった」

 実際俺は、この時代の若い凪さんの事も、俺の居た時代の凪さんの事も詳しくは知らない。ただただ、いつも助けてもらってばかり。だからかな、こんな風に凪さんを慕う人から俺の知らない凪さんを聞けるのは凄く新鮮だ。
 そう思って小さく笑うと、宵さんは安心したように笑った。

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bkm