伝説のナル | ナノ


12


 恐る恐る、俺は部屋の中に足を踏み入れた。自分の部屋でもあるのに、何だろうこの緊張感は。何だかいつもと違うように感じられたんだ。廊下を進み、リビングまで来たが、やはりそこに灯りはついていない。ゆっくりと扉を開き、暗闇と静寂に包まれた空間に入る。

「……?」

 いや、よく耳を澄ましたら、静寂ではない。何処からか、息遣いが聞こえる。荒く、速い、そんな息遣い。苦しそうでもあるその息遣いは、間違いなくこの部屋の中から聞こえてくる。

(――っ、ソファーか?)

 嫌な予感がして、俺は暗闇の中、中央に置いてあるソファーの方へと歩き出す。何故かその時、灯りをつけようと言う考えが思い浮かばず、俺はただ恐らくそこに居るであろう人の所に行くことだけを考えていた。途中机に足をぶつけたり、日比谷さんが散らかしたであろう服や雑誌に足をとられながら進んでいくと、目が慣れて来たのだろう。ぼんやりとソファーに横たわる人が見えた。

「……ひ、日比谷さん?」

 すぐ傍で膝をつき、グッと至近距離でその存在を確かめる。俺の呼び掛けに反応こそしないものの、確かにそこに寝そべっているのは日比谷さんだった。しかも荒く苦し気なその息遣いも日比谷さんのモノで、俺は目を閉じている日比谷さんの手に触れてみた。

「っ、熱い……!」

 急いで他の場所を触って確かめてみると、どこもかしこも熱い。けれど時折寒そうに身体を震わしたりしている。これはもしかしなくても、風邪か?汗も酷いし、結構熱があるのかもしれない。

(なんで、こんな所で寝て……しかも布団も掛けずに)

 もう一度、日比谷さんと呼び掛けるが応答はない。意識がハッキリしないのはちょっとまずいんじゃないか?必死に思考を巡らせ、とにかく布団を持ってこようか。そして人を呼ぼうと言う考えに至り立ち上がった瞬間、俺はグイッと服の端を引かれた……気がした。それ程までに弱々しい引きだった。でも気のせいなんかではなく、俺の服を確かに引くその手を、俺はジッと見つめた。

「……」
「ど、どう、しました?」

 まさか起きているとは思わず、しどろもどろになりながら日比谷さんに声を掛ける。しかし日比谷さんは答えず、ただ俺の服の端を掴むだけ。


「――ッ!」


 グラッと一瞬だけ視界が眩む。しかもその瞬間、俺の服を掴む手が小さな男の子の手に見えた。けど本当に一瞬の話で、またよく見た時には日比谷さんの逞しい手に戻っていた。今のは何だ、気のせいか?
 でも、今の……縋り付くような、そんな寂しい感じに思えた。

「日比谷さん、あの、今人を呼んでくるので……」
「――くな」
「え?」

 よく聞こえず、耳を近づけた瞬間、俺達の距離は一瞬にしてゼロになった。弱々しかった先程の引きとは違い、力強く俺の腕を引っ張った日比谷さんは、そのまま熱い身体で俺を抱き締める。崩れた体勢のまま日比谷さんに突っ込んだ俺は、筋肉痛の痛さにもがき苦しみながら、必死に顔を上げた。

「ひ、日比谷さんっ」

 勢いよく突っ込んだ自覚はあったから、身体は大丈夫だったかと日比谷さんに聞こうと思った。けど、俺の耳に届いた声に、俺はピタリと動きを止めた。


「――行くな」


 泣きそうなその声に、俺は思わず日比谷さんの顔を見る。今の、日比谷さんの声?
 けど、目を閉じ苦しそうにしている、先程と変わらない日比谷さんはただ寝ているだけ。今のも俺の気のせいか?でも、そう思えないのは、俺の身体を抱き締める日比谷さんの手が震えているから。その手が、縋る様に、離さない様に強く強く抱き締めるかの様に感じるから。

「……大丈夫」

 ただ、その言葉だけが口からすんなり落ちた。そして、頭をソッと撫でる。大丈夫、何処にも行かない。それだけを繰り返し呟く。そうしないといけない様な気持ちになったから。こうしたらこの人が安心するって、そう思ったんだ。


「だから、安心して」


 そう、勝手に出てくる。
 スルリとスルリと言葉が溢れる。


「ずっと、傍に居るから」


 その言葉は、まるで俺が言った言葉ではないように感じた。
 でも、そう言った俺の言葉に、暗闇の中、日比谷さんが微かに笑った気がしたんだ。
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bkm