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白い部屋で一人、男は古めかしい本を手に取った。
「ごめん、宗介」
小さな呟きは誰の耳にも届くことはなく、男の悲痛な胸の内を知る者もいない。
今はまだ早い。そうとしか言えないのだ。
何度も何度も心の中でその言葉を繰り返し、男は本を開いた。
「――!」
その本を開いた先に映るのは、疲れ眠りにつく宗介の筈。だが、どうしたことだろう。宗介の姿が何処にも映らない。ページを捲っても捲っても、何処にもその姿は映らなかった。
「そんな馬鹿な……」
男が茫然と呟く。
消えた。宗介が消えた。このままでは記憶が消せない。
記憶が消せるのは、眠りについている時だけなのに。
早く、早く宗介の記憶を操作しなければ。
でないと――。
「……ああ、成る程」
やってくれる。
あれだけ邪魔はしないようにと言ったのに。
男に一瞬走った動揺は、直ぐに消え去った。
そしてその端麗な顔に表れたのは、紛うことなき狂気の色。
「忌々しい」
呟いた声色は、先程とはまるで別人の様な悪声だった。
「――消してしまおうか」
*
「ん……」
何だか手が重い。何故だか左手も右手も動かない。ゆっくりと瞼を押し開こうとするが、思うようにはいかない。漸く瞼が開き、数回ゆっくり瞬きを繰り返し、未だ働かない頭を何とか起こそうとする。何だろう、凄くぼんやりする。と言うか眠たい。
「目が覚めたか?」
「え……?」
すると、すぐ傍で声がした。徐に声のする方に顔を向けると、静かに微笑む会長がそこに居た。
「……会、長?」
「ああ」
「えっと、何故、此処に?と言うか……」
そこで言葉を切った俺は、自分の身体が重かった理由に気が付いた。大樹と那智先輩が、俺の手を握りながらベッドに突っ伏し寝ていた。一体何故。これはどう言う状況なんだろう。そんな俺が言わんとしたことが分かったのか、会長は席を立ち、何故だか俺の額に手を当てた。
「会長?」
「演劇のことを、憶えているか?」
「え?」
「その前のこと、俺の家に来たことは?記憶にあるか?」
そう言って俺の目を見つめる会長は、何だか不安げだ。何故そんな事を聞くのだろう。よく分からないが、俺は首を縦に振った。勿論憶えている。今は起きたばかりでぼんやりだが、今日起こった怒涛の様な出来事はそう簡単には忘れられない。
ああ、そうだ。演劇、演劇はどうなったんだろ。あれ?それもだけど、他にも重大な事があったような。そこに考えが向かった時だった。会長が「ならば……」と俺を窺うように聞いてきた。
「資料室でのことは?」
「資料、室?」
何の事だろう。俺、資料室行ったか?
思い出そうにも、頭がボッーとして中々考えが巡らない。
「いや、分からないならそれでいい。憶えていない方が俺としては助かるから」
「そうなんですか?」
困ったように笑う会長に、俺は首を捻るしかなかった。何だかよく分からないが、会長がそう言うんだ。気にしない方がいいのかもしれない。
「まだ疲れてるんだろ?もう少し寝ていた方がいい。今日は、ぐっすり寝れるはずだ。知るのはそれからでも遅くない」
――無事、成功もしたようだしな。
成功とは何のことなんだろう。それも聞きたいけど、会長が言った通りすごく眠い。更には額に当てられた手で頭を撫でられ、気持ち良さから俺の瞼はまた閉じ掛ける。
「那智も、大地のガーディアンも、今日はこのまま起きないだろう。ハハッ、まさか、本当に介抱する羽目になるとはな」
「……ん」
「まあこいつらは結界は破るし、陣は張るしで流石に限界か」
それは、二人が此処で眠る理由なんだろう。それも、起きたら分かるのかな。
今すぐ聞きたいのに、もう目を開けていられない。ごめんなさい。
「――お休み、宗介」
そう言って静かに笑う会長を最後に、俺の意識はまた沈んでいった。
「行ってくるよ。やり残したことを、片付けに」
そう言い残して医務室を出て行った会長を、俺は知らない。