伝説のナル | ナノ


43


 正直俺は驚いている。
 だって、あの会長が、笑うことだってそう多くないのに泣いている。静かにただただ涙を流しているんだ。俺は、こうして触れられる距離で人が泣いているのを初めて見る気がする。だから今は俺がどうにかしないといけないのに、俺は動揺から経験の少なさからか何も出来ない。ポンポンと背中を叩くだけ。いや違う、凪さんがしてくれた時はもっとこう、優しかった。どんな手つきだ、ああ、どうすれば。
 悶々と考えを巡らせながら、俺はフと思う。根本的な話だけど、会長はどうして泣いているんだ?俺が眠ってる間に何があったんだ一体。

「あ、あの、会長?大丈夫ですか?」

 時間にして大凡十分弱ぐらいだと思う。俺は意を決して会長に話しかけた。すると、ピクリと俺を抱き締める手が動いた。しかし更にギュウッと抱き締められて、思わずぐえっと間抜けな声が漏れ、一瞬気まずい空気が流れる。
 う、恥ずかしい。流石に変な声だった。

「――ふっ」
「え?」
「随分色気のない声だな……」

 耳元で会長が笑った。俺はそれに少し安堵するとともに、やはり声に覇気がないのが気になった。でも、自分でも今のはないと思っているから、笑われたのは凄く恥ずかしい。

「す、すいません。ちょっと、一瞬苦しくて」
「いや、俺の方こそすまなかった」
「いえ…」

 抱き合ったまま話を進めている為、お互い表情は見えない。けど、今確かに分かるのは、会長の手が震えていることだ。俺は軽く会長の背を摩りながら、静かに話しかけた。

「あの、会長」
「……もう少しだけ」
「え…?」
「もう少しだけ、このままで居てもらえないか」

 また、会長の手に力がこもる。

「こんな情けない顔、とても見せられない」
「会長…」
「だから、どうか――」

 このままで。
 そう言って、俺の肩に額を埋める会長に、俺は黙って頷いた。





「あの時、お前は母に呼ばれたんだ」
「え?」

 完全に空が明るくなった頃、漸く会長が顔を上げた。
 時間にしてどれ位だったのだろう、結構長かった気がする。だが、会長の表情はあまりいつもと変わらない。少し目元が赤い位だ。俺が号泣した時なんか目も当てられない位酷かったと思ったんだけど。
 そして平常心を取り戻した会長は、俺にそう真実を告げた。

「過去へ行こうと言ったのも、誰かに呼び掛けられたからだろう?」
「はい…」

 俺はあの時よく分からずにあの声に従った。それが最良の選択だと思ったから。でも、あれがまさか会長のお母さんの声だったなんて。驚いて目を丸くさせている俺を、会長が少し面白そうに見る。

「ありがとうと言っていたよ」
「っ、え?会長、お母さんと話したんですか!?」

 確かにあの場には会長のお母さんが居たけど、それは記憶であって本物ではないはず。なら、会長が会ったのはもしかして――!

「幽霊の類かもな」
「ええっ」
「ふ、冗談だ」

 俺の考えている事が分かったのだろう。会長が小さく笑う。

「あれは、確かに母だった」
「会長?」
「恐らく、狂って我を忘れる前の、な」

 そう言って俺から受け取った写真を見つめながら、会長が静かに呟いた。

「きっと、いつだってそこに思いはあったんだ」
「……」
「でも、俺は気付けなかった。いや、様々な思いに縛られ己を見失う俺には、一生無理だっただろう」

 少しだけ眉を下げて笑う会長は、不意に俺に視線を移してきた。その眼差しが、俺の気のせいかもしれないが、以前と違って少しドキッとした。


「――俺を迎えに来てくれたのがお前で、本当に良かった」
「……!」
「ありがとう」


 まさか此処までストレートにお礼を言われるとは思わず、俺は「あ、う」とぎこちなく首を振るしか出来なかった。
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bkm