お題&短編&お礼夢 | ナノ


▽ 15.痕跡


『零。』

ふいに名前を呼ばれ振り返るとそこにいたのは優華だった。柔らかい笑みを浮かべて降谷の元へと擦り寄る優華に降谷は思わず目を細めると、その体を抱きしめる。細く柔らかいその体はひどく抱き心地がいい。まるで蜜が溢れる花に惹かれる虫の様に優華から離れられなくなりそうだ。

『優華。』

名前を読んで米神にキスを落とすと優華は少し照れくさそうに、けれども嬉しそうに笑いながら、キスを強請るように唇を出す。降谷はそんな優華に普段ではあり得ない柔らかい笑みを向けると、桜色の唇に己の唇を重ねた。

―――――

「・・・夢か。」

突如変わってしまった光景に、降谷はゆっくりと身体を起こしてポツリと呟くとため息を一つ零す。時計を見るとベッドへ入ってから2時間と少しが経過していた。後30分もしないうちに起床予定時刻だ。予定よりも少し早いがもうこのまま起きてしまったほうがいいだろう。降谷はそんなことを考えながらベッドから降りた。

降谷は平常より睡眠時間は普通の人に比べるとかなり短い。それは3つの顔を使い分けて生活しているからだ。当然体は一つしかないので必然的に睡眠時間を削って動かなければならない。普通の人間ならば数日で体が参ってしまいそうな生活を、降谷はここ何年も続けていた。もはやそれが当たり前のことになっており、その程度で降谷の体が悲鳴を上げることはない。けれど、それでもやはり睡眠時間は貴重だ。そして降谷は普段滅多に夢を見ることはない。それは体がその貴重な短い睡眠時間で体を回復させようとする故なのかもしれない。その貴重な睡眠時に出てくるほど、優華の存在は大きいということなのか。降谷はその事実に自嘲的な笑みを漏らす。

優華と降谷は先日思わぬ形で体を重ねてしまった。そのきっかけは優華が媚薬にやられてしまったことだった。薬に翻弄されて苦しむ優華を目の当たりにして、降谷はそれが最善とばかりにその方法をとった。その目的はもちろん優華を苦しめている熱から彼女を開放することだったが、本当にそれだけが理由だったのだろうか。降谷にはそうだと言い切れる自信がなかった。それだけであれば優華があの時望んだように降谷が部屋を後にすればよかったのだ。優華とて何も知らぬ子供ではない。降谷が部屋を後にすれば自分でいくらでも処理できただろう。だが、あの時降谷は部屋を出て欲しいと言う優華の言葉など聞かなかったかのように無視した。まるで必然かのように熱に浮かされる優華に甘さを含ませた声をかけてそのまま優華を抱いた。もしかすると降谷はもっと前から、それこそ自分でも気づかないほど心の奥底で優華に惹かれていたのかもしれない。

優華が未経験だったと知ったときのあの衝撃は未だに忘れられない。彼女が守り抜いてきたものを自分が穢してしまったと知った時、優華に対して心底申し訳なく思ったのは事実だ。だがそれと同時に浅ましい満足感も抱いた。そこには間違いなく誰も踏み荒らしていない新雪を自分が穢したことへの喜びがあった。そしてハニートラップの使い手だと思っていた優華が実は昔学んだことがあるという知識を総動員して情報を入手していたことを知った時には驚いたものだった。通常警戒心の高いターゲットと寝ることなく、己の欲しい情報を手に入れることはかなり困難だ。にもかかわらず、優華はその困難な仕事をこなしてコードネームを手に入れるまでに至っている。それは優華のその知識の深さと技術の高さを証明しているようなものだ。それは決して軽視出来ることではない。優華が他の組織のメンバー同様、警戒しなければいけない相手であるということだ。そんなことを考えながら降谷はそっと瞳を閉じる。

降谷の脳裏に熱に浮かされた優華の姿が蘇る。華奢な体に似合わない豊満な胸。触れるとまるで吸い付くような滑らかな白い肌。そして脳内を犯すような甘い声。それらを思い起こすだけで降谷は体が疼くのを感じた。体を重ねてみてわかったことがある。それは優華と降谷の体の相性が言い表せないほど良いということだった。まるでお互いがお互いのために存在するのかと考えてしまいそうなほどしっくりくる感覚に、無我夢中で優華を貪った自覚はある。情事が終わって気づいたら優華の身体には赤い華がこれでもかというくらい咲かされていた。それはほぼ無意識にしていたことだった。まるで反射反応のように刻み込まれた己の所有印だらけの柔らかな肢体を思い出すだけで、降谷の中にえもいえぬ感情が蘇る。

身体に痕を刻まれたのは優華。だが、心に恋心という痕を残されたのは他でもない降谷だった。

「・・・僕も堕ちたな。」

優華がメルローという組織のメンバーである以上、本来の降谷とは決して相容れない存在だ。胸に抱くこの想いは決して許されるものではない。誰にも知られてはいけない、秘められるべき想い。

降谷はそんな己を嘲るように笑う。

今日は朝から組織の仕事だ。優華とは会えるだろうか。

降谷はぼんやりとそんなことを考えながら『バーボン』の仮面を被った。


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