賢者の石 | ナノ

▼ 17(3)


トイレに駆け込むと、しゃくり上げる声が聞こえてきた。
どうやら、彼女はトイレの個室で泣いているようだ。

「ハーマイオニー?」

ラピスが声をかけると、ぴたりと声が止んだ。

「ラピス……?」

本当に小さな、消え入るような声。

「そうよ。どうして泣いているのか、聞いても良いかしら?」

暫くの沈黙と鼻を啜る音が聞こえた後、彼女はぽつりぽつりと話してくれた。

妖精の魔法の授業の時、ロンとペアになったハーマイオニーは彼の浮遊呪文の発音が間違っていることを注意した。
彼女が簡単に羽を浮遊させたことも重なって、イライラしたロンはハリーに愚痴を零した。
その内容を偶々聞いてしまったらしい。

「私が、いけなかったの……強く、言い過ぎてしまったのよ……」

やっぱりそう。
彼女は感情表現が上手く出来ないだけで、とても優しくて思いやりがある子なのだ。

「そうだったとしても、ロンは言ってはいけないことを言ったわ」
「もう、良いのよ…貴女だって、私のこと嫌でしょう?うんざりしてるでしょう?」

言いながら、彼女はまた泣き出してしまった。

「私は、一言もそんなことは言っていないわ」
「言ってたものっ!貴女は優しいからっ…だから、同情して私と喋ってくれてるってっ……!」

彼女は吐き出すように、とても辛そうに言った。

「私、貴女のこと……友達だと思ってるわ」

言いながら、少し胸が痛くなった。

「…っ、…ひっく……」
「貴女が、初めて出来た女友達なの」
「……私だってそうよ、でもっ、」
「確かに貴女は少し気が強くて、お節介なところもあるかもしれない。でも、でもね、私は知ってるわ」

ハーマイオニーの入っている個室のドアに、ラピスは静かに手を当てた。

「ハーマイオニー、貴女がどれだけ真面目で努力家で、優しくて思いやりを持っているか、私は知ってるわ」
「っ……」
「他の誰も分かってくれないとしても、私はちゃんと分かっているわ。貴女が泣いていたら傍にいたいし、力になりたい。いつだって私は、貴女の味方でいる」

友達とはどんなもの?
……分からない。
普通は、皆はどんなものだと思っているのか分らない。
けれど、これが正直な気持ちだった。
友達を作る資格なんて、私にはないと思う。
でも、彼女が自分を求めてくれたことが嬉しかった。
彼女といることが心地良かった。
少しばかりつっけんどんでも、お節介でも、心では他人を心配し気にかける優しい彼女が、とても好きになった。
これからも、彼女と友達でいたいと思った。

「ラピス……」
「出てきてくれないかしら。でないと貴女の涙を拭ってあげられないわ」

鍵が解錠される音がして、静かに扉が開いた。

「ハーマイオニー……」

目を赤くして、申し訳なさそうにする彼女がいた。

「ミス・パチルとミス・ブラウンも心配していたわ」
「ありがとう、ラピス」

頬に残る涙を拭ってやると、彼女は眉を下げて笑った。

「私も、いつだって貴女の味方でいるわ。貴女と友達になれて、本当に良かった」

彼女はまた目を潤ませて言った。
ラピスは嬉しくなって、でも恥ずかしくなって、はにかむように微笑んだ。
胸が、温かかった。

「沢山泣いたらお腹空いたわ」

ハーマイオニーはいつものように明るく言った。

「泣いたらお腹が空くの?」
「ラピスは空かないの?」
「私は――、」

泣いたのは、涙を流したのは、両親が殺された時が最後だ。
それから泣いた覚えはない。
泣いたらお腹が空く――経験がないラピスには分からないことだ。

ラピスがどう答えようか迷っていた時、嗅いだことのない異臭が漂ってきた。

「何かしら、この匂い」

ハーマイオニーが顔を顰める。

「嗅いだことがないわ」

次に、音が聞こえた。
低い唸り声、足を引きずるように歩く音。
何かは分からないけれど、とても大きい何かが近付いて来ている。

「逃げましょう」
「え、ええ」

ラピスが言うと、ハーマイオニーも事態を把握して頷く。
早くトイレから出ようとラピスがハーマイオニーの手を取った時、何かがぬっとトイレに入って来た。
背は四メートルもあり、墓石のような鈍い灰色の肌、岩石のようにごつごつした巨体、短い足は幹より太く、こぶだらけの平たい足が付いている。
ものすごい悪臭を放ち、異常に長い腕の先の手には、巨大な棍棒が握られている。
――トロールだ。
ラピスは息を飲み、ハーマイオニーはかたかた震え出した。
しかし、まだトロールは此方に気が付いていない。
今のうちに早く脱出しなければ。
ラピスが震えるハーマイオニーの手を握り直した時、ばたん!と勢いよくドアが閉まった。
どうしてドアが?
予想外の出来事に、二人は混乱した。

「あ、あ……」

ハーマイオニーの口から、恐怖で言葉にならない声が漏れた。
トロールは、その声でラピスとハーマイオニーに気付いてしまった。
閉まったドアを見ていたトロールは勢いよく振り返り、二人を見つけると低く唸って棍棒を大きく振り上げた。

「きゃあああああああ!」

ハーマイオニーが悲鳴を上げる。
ラピスは力一杯彼女を引っ張ると、一番奥の個室に逃げ込んだ。
勿論、ラピスも怖かった。
三歳の誕生日以来、否、それ以前も危険な目に等あったことはない。
本物のトロールを見たのも初めてだ。
しかし恐怖よりも、ハーマイオニーを守ることがラピスの頭の中を支配していた。
トロールは洗面台を次々になぎ倒しながら此方に向かってくる。
今度は個室を壊すばきばきと大きな音をが聞こえた。
――来る。
棍棒が当たれば、二人とも死んでしまう。
ラピスは一瞬躊躇ったが、空いている手でペンダントをきゅっと握ると、強く念じた。

「伏せて!」

ラピスはハーマイオニーを抱き締め、低くしゃがんだ。
個室は破壊され、最早個室の面影もなくなってしまった。
しかし、ラピスとハーマイオニーは怪我一つしていなかった。
トロールの棍棒は、二人に直撃はおろか掠る事もなかったのだ。
何故なら、ラピスが作り出した魔法の盾によって、二人はしっかりと守られていたからだ。

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