賢者の石 | ナノ

▼ 35


「ラピス!」

名前を呼ばれると同時に、勢いよくカーテンが開いた。

「っ、――?!」

ローブを着ようとした手を止め、振り向いた瞬間、包まれた。
ローブが手から滑り落ちる。
――驚いた。
あまりに突然のことで、上手く頭が働かない。
どうして――、
何と言ったら良いのだろう。
痛い位に回された腕。
しかし、それが不快には思えない。
酷く荒い息遣い。
走って来たのだろう。
鼻を擽る清潔な洗剤の香り。
それを深く吸い込むと、何故だかとても落ち着いた。

「――ドラコ、」
「っ、馬鹿!」

彼の声は震えていた。
怒っているのか、悲しいのか分からないけれど、馬鹿と言われたことにまた驚く。
彼は今までに一度もラピスに暴言を吐いたことがない。

「本当に君は馬鹿だ」

ぎゅう、更に抱き締められる力が強くなった。

「痛いわ」

彼は謝らないどころか、力を緩めようともしない。
どのくらい時間が経っただろうか。
勝手に女性の病室に入ってきて、突然抱き締めたかと思うと、馬鹿だと言った。
一体どうしたと言うのだろうか。

「ドラコ、」

すん、と彼の鼻を啜る音が聞こえた。
え―――?
ラピスがそう思った時、彼が彼女の肩を掴んで身体を離した。

「どれだけ、心配したと思ってるんだっ……!」

ラピスは言葉を失った。
彼の言葉も、表情も、全く予想外だったからだ。
理解が出来ない。
アルバスが言っていた"彼"は、ドラコのことだったのだろうか。

「無事で良かった」

ドラコは潤んだ青灰の瞳を細めて、ふにゃりと笑った。
呼吸が、心臓が、一瞬止まった気がした。
今までに、彼のこんな表情を見たことがあっただろうか。
それはとても、とても――これではまるで――彼が――……

「心配、したんだからな」

すん、とまた鼻を啜って、今度は拗ねたように言った。
そして、再度ラピスを抱き締める。
今度は、優しく、労わるように、確かめるように。

「いなくなったりしないで」

耳元で囁かれた言葉は、ひどく悲しく、苦しい程に優しかった。

「何か言ってくれよ」

彼が小さく笑う。
しかし、ラピスは何も言うことが出来なかった。
彼の、自身よりも広い背中に、そっと手を添えてみる。
彼の身体がぴくりと動いた。
彼の身体なのか私の身体か、どうしてか、とても熱かった。
それでもお互いに離れようとはしなかった。
それが、何故かは分からない。

何が、どれが、誰が真実(ほんとう)なのかも分からない。
彼のこの一連の行動や言動も、虚偽(うそ)なのかもしれない。
私を油断させる為の演技なのかもしれない。
でも、けれど――……
唯、祈るように、ラピスは瞳を閉じた。
彼のあの潤んだ瞳も、悲痛な表情も、言葉も、優しさも、温もりも、そして、幸せそうな笑顔が――
せめて、あの笑顔だけは――真実(ほんとう)でありますように。

こくりと、小さく、一度だけ、ラピスは頷いた。
ドラコは満足そうに笑って彼女の黒髪に顔を埋める。

「ありがとう」

窓から差し込む陽の光が眩しい位に煌いて、何もかもが美しく見えた。


35 世界は色をもって生と成す(こんなにも綺麗だったなんて、)

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