社会科担当磯山秋人を前にし、おれは頭を下げていた。
 いや、頭を垂らしていたといった方が適切なのかな、この場合。日本語って難しい。
 煙草に手を伸ばし、その手を止めて嫌そうな顔をしている磯山は盛大に溜息を吐き出した。
 おれが、悪いわけじゃないけど……やっぱ書類の手続きが面倒なのかもしれない。

 柚木川高校は校風が自由だ。それでも不良は少なく、のびのびとした高校だ。
 でも、バイトだけは教師の許可制になっている。
 特に問題がなければ書類はすぐに通る。居酒屋のバイトも、素行が悪くなければOKという程に緩い学校だ。
 そんな緩い学校なのに、書類を申請する理由は昔ホストクラブで働いていた生徒がいたらしく、それでしばらくバイト自体が禁止になっていたみたいだ。
 でも、その問題も十数年前だから緩和策として書類提出が義務付けられた。
 過去の偉人の存在は今でも柚木川の生徒に「面倒な奴」として語られている。

「お前これ、何時間働くんだよ……」
「やっぱ駄目ですかね…」

 磯山の眼鏡越しの眼差しが届く。だって、おれの家はまじで今貧乏だ。
 取立てはないけど、色んなものを売っている。
 机とか、ゲーム機とか。父親が土下座した日の事を忘れられない。おれ一人が我侭を言える立場じゃない。

 高校に入学してしまった手前入学金は戻ってこない、授業料を払うのも勿体ない。
 最初は学校を辞めようと思っていた。そこまでおれの家は切迫している。
 朝から新聞を配達して、昼は仮眠、夜は「Zizz」って喫茶でバイト。合間に短期のバイトもちらほら。
 奨学金も借金だから嫌だったけど、背に腹は変えられなかった。

「お前の家の事情は知ってるがな、体壊すぞ」
「大丈夫です、若いから!」
「あのなぁ……ったく、知らねェぞ。とりあえず、この新聞配達は消しとけ」

 喫茶店でのバイト、早朝新聞配達、短期バイトをかけもち。
 その予定が脆くも崩れ去り、おれは困ってしまう。
 今はおれの雀の涙程度のお金でも家には必要になっている。朝の新聞配達でも一ヶ月に三万は稼げる。
 三万円があるかないか、それでだいぶ生活は変化する。

 磯山に対して素直に返事は返せなかった。

 磯山はそんなおれの態度を見て、どうにも困った顔をする。磯山は、いい先生だって思う。
 おれだったらそういう生徒の面倒なんて絶対に見たくない。揉め事、起こしそうだから。でも、磯山は見捨てないで体を気遣ってくれる。

「羽月…あまり突っ込みたくないがな、そのうち倒れるぞ」
「……倒れないよう頑張る」
「阿呆。学生の本分は、勉強だ。お前、授業中寝てたら留年するぞ」

 中学のときにはなかったデッドライン。
 元々そんなに頭は良くない。
 そんなおれが授業中寝ていたら授業態度だってマイナスだし、提出物も出す時間がない。テストだって、そんなによくない。
 何を言えばいいのかわからなかった。

「羽月、あんまり聞きたくないけどな、親御さんどんな感じだ?」
「えーと、あんまり寝てないと思う」
「――今度三者面談するぞ。都合のいい時間聞いとけ」

 普通の教師だったら、おれは断固拒否していたと思う。
 そんなに深く関わってほしくない。同情だけだったら、時間の無駄だ。
 でも、磯山はおれを馬鹿にもしないし、親を馬鹿にもしていない。おれ達家族ごと心配してくれてるのが分かる。
 課題多いけど、磯山って本気でいい先生だ。
 競馬好きで、酒も好きで、煙草も好きだけど、いい先生だ。

「…あ? 何見てんだ気色悪ィ」

 ……前言撤回は早かった。



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