――授業、始まる。 「んっ……ふぁ、っ」 鼻に抜ける甘い息が、ぞわぞわと背筋を泡立てる。 煙草の匂いが近くて、先生の香りが近くて、全部に酔っている感覚になる。 無精ひげがおれの顔に当たってちくちくして、その刺激がまた妙な感覚を与えてくる。 舌と舌が混ざって、唾液の音が耳に入って、首の裏辺りがちくちくした。 生温かいものが首に伝っている。 唾液だってどこか冷静な自分は知っていて、その感覚は不快だったけど、それよりも気持ちいい感覚を止めたくなかった。 「んっ、せんせぇ……」 「……えろ」 「きもちぃ」 「……」 磯山先生が固まった。それはもう、見事に、彫刻のように。 もっとしてほしいのに、眼鏡が半分ずれて口を開いてる先生は間抜けだ。ちゅーが、キスが、こんなに気持ちいいなんて知らなかった。 もっとしてほしい。先生にならもっと、たくさん、ずっとしてほしい。 ワイシャツを引っ張って「もっと」そう言えば、ぐっと息をのみこむ音が聞こえた。 「せんせー?」 「授業があるから勘弁して下さい。本気でやめてください。春樹さん」 どうして敬語なのか分からなかったけど、授業が始まるのは確かだったので「うん」と、首を縦に振った。 その返答に磯山先生はどこかほっとした様な顔を作っていて、おれはそれがなぜか無性に面白かった。 「かなでー」 教室に戻れば、かなでが心配そうな顔でおれを迎えてくれた。 かなでの心配顔はその辺の女の子より可愛いと思う。女顔というより、美少女? って、雰囲気かもしれない。 それなのに内面は男前っていうか、弱いところはなかなか見せない。かなでは不良のセンパイに片思いしてて、でも、その先輩はかなでをふっている。 おれはそのセンパイも、センパイと付き合うようになったセンパイも、知っている。 でも、かなではそのセンパイ――政哉センパイも気にかけてて、人を好きになるのは怖いって、思っているみたいだ。 かなでは好きだったセンパイ、志岐センパイにストーカー行為をしていたらしい。その辺りのことは、おれは詳しく知らない。 でも、してはいけないことだと思うし、かなでにそんなことをしてほしくはなかったって思う。 政哉センパイのことは今では普通に慕っているらしいし、おれが気遣う展開はすでに終わってしまっている。 かなでは、人を好きになって嫌な奴になる自分が嫌いらしい。 醜くなるのが怖くて、気持ち悪い。って、思ってるみたいだ。 心配そうなかなでを見て、言ってもいいのか悩む。 かなでは、たぶん、おれと磯山先生の間に何かあったのには気づいてて、好きだっていうのも知っている。でも、かなでに言ってもいいのだろうか。 人を気遣うのは苦手だ。おれの考えていることと、相手の感情が合致する筈がまずないから。 だからおれの気遣いでかなでを傷つけているかもしれない。 「……春樹?」 「えと、」 心配してくれてありがとうなのか? 先生が、おれのこと好きだって言ってくれた。なのか? じぃっと見つめてくる視線に口を開いて言葉が出た。 「おれ、磯山先生もかなでも好きだ」 「……あー、うん。なんとなく察したから、慣れないことしない方がいいよ」 「おれもそう思った……先生とは決着付けてきたから、とりあえずありがとー」 「うん。春樹、ただでさえ借金で悩んでるんだからさ、少しは身軽にならないとな」 あぁ、そうか。そういえば、おれの家は借金まみれで、それがきっかけで先生と暮らしてるんだ。 親のために、生活のために、必死にバイトしてたのに、忘れていた自分が不思議で、すこしだけ罪悪感を抱く。 「おーい、授業始めるぞー」 「いそやん来るのはえーよ!」 「はい谷木の課題追加―」 「ああああああ! 勘弁してえええ!」 それでも。 視線の先に先生がいる。五月蠅い心臓の音の正体を知って、さらに苦しくなった気がした。 それでもおれは、この気持ちや、自分の行動を、後悔なんてしたくない。 |