じわじわと首の裏に汗が生じる。透明な水滴はじっとりと皮膚を濡らし、不快な感覚をシャツと皮膚越しに生み出す。
 一体何分、何十分そうしていたのだろうか、終わりを告げたのは、抱きしめた本人が手を緩めた時だった。
 まるで離れることが自然な動作に、思わず腕を伸ばしかけたが、先生の肩越しに見えた時計が次の授業を知らせる時間に差し迫っていた。

「……」
「……」

 照れとか、羞恥とか、それから生まれたわけではない沈黙が落ちる。
 何と言えばいいのかよくわからなかった。
 おれはふられるつもりで、踏ん切りをつけようとしていた感情を先生に抱きすくめられて、先生は、先生は……。

「先生は、いつからおれが好きだったんですか?」
「……おまえね、この状況でストレートにそんなこと聞くかよ」
「性分なんで」

 すっぱりと言葉を吐き出せば、先生は項垂れと一緒に重く息を吐き出した。
 なんとなく、そういう気持ちはわかるのだけど聞きたかったんだから仕方がない。
 なにより、さっきの意地が悪いとしか思えない先生の切り返しは正直むかついている。好きな人に悪い。なんて、告白の時に言われて、どう思うのかわからない人じゃないのに。

「大人ってのはな、保身に走るんだよ。青臭いままいられねぇの」
「好きだって言ったのに?」
「おまえに好きだって言われても、どうしたってその後ろにあるもんが見えるだろうが」

 それはおれの将来であったり、おれの親であったり、おれを大事に育てる世界であったり。
 おれが考えられない部分まで、きっと、おれの倍以上生きている先生は見えているのだろう。
 おれは誰かを好きになったことがなくて、自分の感情に気づくことすら鈍い。きっと、この考えは危ないものなんだってわかってる。
 気づけば好きになっている。それはなんて、盲目的な感情なのだろうか。

「俺は、やっぱりお前よりも生きてるからな。それなりに経験して、生きて、失敗して成功して、そういうもん全部味わってほしいんだよ」
「それは、」
「――俺を選ぶ時点で、大失敗しかありえねぇからな」

 そう言った先生は、初めておれの目の前で煙草を手に取り、口に銜え、火をつけた。
 視界の中で煙草を吸うことがあっても、決して目の前で一からの手順を踏もうとはしなかった。無意識に吸いそうになったら不意に手が止まることも多かった。
 自然な動作で煙草を吸い、紫煙を燻らせる先生は下方に視線を伸ばし憂いた顔を見せる。
 子供のおれには決してできないその表情に、踏み込めない領域を知る。

 大失敗しかない。
 おれにとっては、成功でしかないのに。

 二人が二人を好きで、成功じゃないか。そう、思ってしまうのは間違いなくおれが子供だからだ。
 自分はどちらかといえば平凡で、世間の常識に則って生きていると思っていた、思っている。でも、先生が関わればそんなものは霧散する。
 それは、いけないことなのだろうか。
 ただ単純に、目の前の人が好きなことが、そんなに駄目なのだろうか。

「おれは、」
「ん?」
「おれは、失敗も、成功も、絶対に先生と味わうんだ」
「――……」
「年の差とか、教師と生徒とか、男、同士とか。そんなのあっても、なくても、好きなんだ。先生と一緒だったら、おれ、おれは、」


 ――いいんだ。


 それだけで、いいんだよ。
 誹謗中傷とか、批難とか、親の言葉とか、世間の目とか、そんなのどうでもいい。
 先生がおれだけを見ててくれたらそれでいい。自分がこんな考えをできるなんて思ってみなかった。それは、先生も同じでぽかんと、間抜けな顔でおれを見ていた。
 煙草の灰がじじっと、先生の指近くまで伸びる。
 それを視界に入れ、おれは先生の手から煙草を奪い、吸い殻の屍が積もり積もった灰皿の中に突っ込んだ。

 眼前に迫る間抜けな男の唇をガツンと歯の鳴く音と共に奪い、真正面からにらんだ。

「おれだって、もう――秋人先生を離すもんか」




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