先生が、好きだ。
 おれの言葉を曲解できるような状況ではない密室で、磯山先生は目をそらすことをせず、真直ぐおれを見据えていた。
 こういう告白を、この人が何度も受けていることをおれは知っている。
 この学校に勤務していて、だらしがないけど、真摯に接してくれて、実際は優しい。今まで、おれと似たような生徒にもきっと手を伸ばしていたに違いない。
 そういう生徒が、思い余って感情を吐露することがあっても不思議じゃない。
 なにより、先生の見た目って意外といいから、見た目から先生を好きになってしまう奴もいる。

 おれは、自分が好きになったからって相手がおれを好きになってくれる。なんて、馬鹿なことは考えない。
 正直な話、男同士ってだけでふられる理由は確立してしまっているし、年の差とか、教師と生徒とか、それらを踏まえれば先生が断るのは目に見えている。
 それでも言ったのは、先生が言ったからだ。
 おれは、変わりたくない関係だった、変えたくない関係だった。
 言わせたからには責任取れよ、聞いたからには応えろよ、感じたからには言ってくれ。

「悪い」
「そうですね」

 待っていた答えはそれだった。
 当たり前、当然、知っていた、理解していた、わかっていた。
 納得している答えが届いたとき、胸が痛くて、たまらなかった。
 視界が急速に歪んでいく、じわじわと目柱に熱が浮かぶ。ぱちりとまばたきをした瞬間、ぼろりと、目から何かがこぼれた。
 それが、その正体が、わかった瞬間、傷ついたんだと、納得しながら、理解しながら、やっぱり嫌だったんだと知った。

 好きで、好きで、どうしようもなくて。頼りにしている人で、おれの感情を知っていながら言わせたその人は最低だ。
 それなのに好きって感情は消えなくて、一生片思いでもいいと思いながら、どこかで、どこかでおれのこと好きだって言ってほしいなんて思ってて。
 間抜けでかっこわるい、泣き顔なんて見られたくない。
 腕で強引に涙をぬぐおうとすれば、悪い。再度そう言った先生は、おれの事を抱きしめていた。

「……」
「悪い、羽月」
「さいてい。悪いって、思いながら」
「ああ」
「離してよ」
「悪い、出来ねぇ。する、つもりもねぇ」
「……?」

「悪い」

 幾度目になるのか。そう言った先生は、じんわりと熱で湿った手をおれの頬に添え、熱く、かさついた唇をおれの唇に下ろした。

 どう、なっているのか。判断に困る状況の中、開いた視界には目を閉じた先生の端正な顔が見える。
 ああ、意外とまつ毛が長い。
 35にもなるのに、皺が予想よりも少ない。
 無精ひげがやっぱり痛い。
 唇が、熱い。

 ぼんやりとした思考の中、そっと先生のまぶたが動き、その下にあった瞳が覗きこんだ。熟れたそれが熱を込め、おれをじっと映している。
 そこに映ったおれは、ただただ、間抜けな顔だった。

「悪いな、おまえの将来とか、おまえの家族とか、そういうものを考えりゃ、大人の俺が引かなけりゃならないんだけど」
「――せん、」
「羽月を、他の誰かに譲るつもりは、毛頭ないんでね」

 そう言った先生は、おれを、バカみたいな力で抱きしめた。
 背骨ちょう痛い、ぎしりと音を立てて悲鳴を上げている骨に、容赦ない力がこめられている。
 痛い、痛い、痛くて、涙が馬鹿みたいに出た。
 紛らわしいんだよ、おれが口に出したんだから気遣う必要もないんだよ。
 先生の言葉が頭の中で反復され、何度も何度も響いて、ずっと胸の中に残り続ける。
 縋るように先生のワイシャツに手を絡めた。皺になることを知っていても、力を緩めるなんてできず、仕返しとばかりにおれは先生の胸元で泣いてやった。
 鼻水とか、涙とか、よだれとか、汗とか、そういうもので汚くなればいい。

 いくらひっついても文句を言わない先生に、縋る腕も、抱きしめる力も、一切緩むことはなかった。




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