正直に言おう。おれは、先生としたちゅーのことなんてきれいさっぱり忘れていた。
 人間の脳みそって現金なもので、そんなことを言われた瞬間、あの時のことがぐぁ! って、よみがえってきた。
 酒臭くて、重くて、だらしなくて、なんだこのおっさんって思ってて。
 好きだなんてなかった時の記憶、今されたら、おれは絶対悶絶する自信がある。

「おまえ、態度変えないから気にしてないかと思ってたんだよ。そりゃ、酔っ払いのおっさんにキスされたら誰でも」
「いや、先生覚えてるの?」
「あー? あー……酔った次の日は基本自己嫌悪を覚える日でもある」
「胸張って言うなよ」

 駄目なおっさんだ、ほんと。なんでこんな先生を好きになったんだ、おれ。
 思い出し、顔がすこし熱くなってくる。なんでおれもあの日のこと、普通に忘れてたんだろ。
 そりゃ、些細な記憶を忙殺する程度には忙しかったけど、あれは些細なことじゃないだろ。だって、酔っ払いだとしても好きな人にちゅーされたんだし。

「顔赤いぞ?」
「五月蠅い。……ってか、ちゅーされた程度で先生避けるほどおれ、繊細じゃないよ」
「じゃあ、なんで避けてるんだよ」

 墓穴掘ったのか、それとも誘導されたのか。まっすぐ伸びてくる眼差しは、逃がす気なんかなかった。
 頭の上からチャイムが聞こえてくる。それでも先生は力を緩めてくれない。
 なに、本当のことを言ったら先生は離してくれるのか?
 でもそれは、今の関係すら壊してしまうものじゃないか。
 おれは安穏が好きで、今のままが良くて、変化が嫌いで、変わってしまうことが何よりも怖い臆病者なんだ。

 無理だ、言えない。

 先生が、磯山秋人先生が、好きなんだ。
 でも、言ったら先生はおれから離れるじゃないか。
 男同士、教師と生徒、年の差、おれたちの前には壁しかないじゃないか。
 いやだ。それだったら、このままでいい、このままの、先生と生徒の関係でいいんだよ。

「い、えない」
「……」
「おれ、先生にだけは、理由を……言えない」
「――言わないじゃなくて、言えないのか」
「……」
「吐き出したら、楽になるぞ。もうちっと、信用しろよ」

 違う。信用してる。先生は優しいから、何気に頼りにもなるし、色々してくれる。
 だから、いやだ。
 おれの言葉は、おれのこの気持ちは先生を悩ませるし、先生はおれを気遣う。
 好き。先生が好き。
 早く結婚してくれてれば、こんな気持ち抱かなかったのに。
 おれが女の子だったら、まだ、素直に言えたかもしれないのに。

「おれ、先生にだけは嫌われたくないんだ」
「羽月?」
「だから、絶対に言わない。先生には言えない。避けるのは、やめる。だから」

 もう、手を離してほしい。
 触れあってくる部分が恋しいのに、離してほしいと思うおれは、きっと馬鹿で、どうしようもなくて、臆病なんだ。


「無理」


 最低最悪自分死ね! まではいかないけど、それなりに落ち込んでいたおれに先生が放った言葉はまるで子供のようなわがままにしか聞こえなかった。
 はぁ? さっきまでの空気がうそのように、呆れた声が自然にこぼれてしまう。
 無理、無理って言った? 無理って言われたの、おれ。

「避けるのは理由があるからだろ。てめぇ、今さら言わないとか馬鹿か」
「横暴教師ですか!」
「阿呆。他の奴ならてめぇみたいな面倒なやつ放置するんだ。俺は最後まで面倒見るって家に連れてきたときから決めてんの」
「冬島先生みたいになりたいからですよね」

 ごっ。思いっきり頭を殴られた。悲鳴すら出なかった。

「あのな、俺は野郎が嫌いで、あの時の自分も好きじゃねぇの。似たような状況なのに、前向きに考えるおまえに尊敬してんだよ」
「……尊敬?」
「確かに――」

 確かに、在りし日の自分と、冬島を比べたかもしれない。
 でも、現実にあるのは羽月と自分の存在で。腐っていた自分と違って、学校に通いながら働く子供を前にして、覚えた感情。
 べらべらと珍しく雄弁に語る先生を覗き見ようとしたら強引に頭を押さえつけられる。痛い、自分の上靴と目があった。

「羽月から言われたことをずっと考えた」
「……」
「善意かどうか。ひっでぇことストレートで言うクソガキ。でも、お前の目にはそう見えてた」

 その原因は、なんだったのか考えてた。どうしてそう言われたのか、考えてた。
 緩んだ手の力に顔をあげた。無精ひげが見える、近い顔、やっぱ先生は何気に男前。
 じぃっと見上げたままの姿勢、先生は視線を下げておれに目を合わせた。

「で、気付いた」
「?」
「おかしいのは、俺じゃなくて、おまえ」

 羽月春樹は、善意だろうが、悪意だろうが日常に平穏を望んでいる性格の持ち主で、感情に対して特にこだわりは持っていないはずだった。
 衣食住の確保、それだけを念頭にしていたはずだ。それがどうして、そんな風に発言したのか。
 変わったのは磯山秋人ではなく、羽月春樹で、それは、あの日のキスがきっかけに思えた。
 だから言ったのだ、あれが原因かと。でも、違った。

 ゆるやかに変化しすぎて気付かなかった。
 誰も、何も、羽月個人も。


「言え」


 先生は、知ってるのだろうか。
 おれの、気持ちを。
 知って、こうして言葉を向けるのだろうか。
 だとしたら、最低の大人だ、やっぱり。こんな大人、好きになりたくなかった。
 好きになんか、なりたくないのに。

「おれ、は」

 どうしてこんなに、焦がれるのだろうか。




back : top : next