お店の中で流れているBGMはゆったりとしたもので、心を落ち着けると思う。
 このセンスは佐奈さんのもので、マスターが用意したらロックかV系になるらしい。さすがに、それはどうかと思うけど、だから佐奈さんがいるんだろう。

「秋人くんが担任だって、環に聞いてたけど父さんのことまで話してたのね」
「はあ……」
「あの二人おもしろいのよー。互いに毛嫌いしててね、笑えるのよ」

 けらけら笑いながらガラスケースの中に佐奈さんはケーキを入れている。
 おれはその隣で、レジの確認。お客さんの来ない時間を見計らって、新しいケーキが追加されている。
 男は甘いものは苦手ってイメージはおれの中にはあるけどおれは好きだ。
 意外にも和山センパイも、志岐センパイも甘いものは好きらしい。政哉センパイだけが、甘いものは苦手だ。
 鼻歌交じりでケーキを飾っていく佐奈さんは、とてもうれしそうな顔をしていた。
 おれには、理由がよくわからなかった。

 冬島先生は、磯山先生の言葉通りの人らしい。
 生真面目で、実直で、不良を毛嫌いしている。
 でも、真正のお人好しなのだと佐奈さんは楽しげに語った。

 マスターも、先生も、大嫌いだけど、それでも生徒だからと構っていたらしい。
 話す度に嫌いになったし、その程度の理由で不良になることもわからないと愚痴をこぼしていたという。
 生活指導の見本みたいな人だと、嬉しそうな顔で言う。
 だからこそ余計に反発したし、見えづらいやさしさには気付かなかったと佐奈さんは言う。

「私もね、思春期の頃は父を嫌っていたのよ」
「……佐奈さんってそんな風には見えないですよ?」
「そりゃ、35まで生きてきて昔のままじゃいられないわよー。でもね、若い頃は本当に父が嫌いだったの。たぶんね、若い子は絶対に嫌うタイプだと思うわ」

 今ならわかるんだけどね。そう言い、佐奈さんは笑った。

「秋人くんが先生を目指したのも、たぶん、根本ではわかっていたんだと思う」
「……冬島先生のことを?」
「たぶん、娘の私より知ってたと思う。ほぼど突き合いみたいな関係だったから」

 そう言って、笑う佐奈さんを見て磯山先生のことを考えた。
 聞けば聞くほど、いやな気分になっていく。
 自分でもその理由がわからなくて、いやになる。おれはどうして、こんなに先生を気にしなきゃいけないのだろう。
 佐奈さんは何も言わずに笑っている。この人は、最初に会ったときから穏やかで、和やかな人だった。
 そして、何もかもを見透かしているような人。

「春樹くんは、可愛いね」
「佐奈さんのほうが可愛いです」
「おばさんに向かってお世辞はいいのよ。それに、可愛いの意味が違うことぐらいあなたはわかるでしょう?」

 じっと向けられる瞳の色は、和山センパイと同じで居心地が悪い。
 そらそうと思うのだけど、一回交わった視線のせいでそらすことができない。
 何か言いたいことがあると思う。でも、何を言いたいのかわからない。
 磯山先生のことばかりだ。冬島先生なんて、おれには関係ないのに。なんで、こんなに気になるんだろう。

 なんで、こんなに。

 貧乏なんて大嫌いで、助けてくれた先生は恩人で。
 これ以上両親の苦しむ姿は見たくなくて、逃げ先を与えてくれた。
 感謝してる、恩人だ、だからおれは先生に意見するつもりも、先生の過去を知るつもりもなかった。
 誰かと近づけばそれは、傷つくことと同義で、だから、広く浅い付き合いをしていたのに。


 何故だろう、こんなときに、酔っ払いのキスを思い出した。


「秋人くん、かっこいいもんね」
「……」
「たらしだからね」
「……」
「――困っちゃうね」
「佐奈、さん」
「こわいね。人を好きになるのは」

 泣きたくなった。
 ああ、そうか。すんなり納得できた感情の答えに、おれは小さくうなずいた。
 そうか、おれ、先生が、好きなんだ。
 普通の意味の好きじゃなくて、恋愛対象として。
 助けてくれた、傍にいてくれた、そんな人間ははじめてで、嬉しくて、せつなくて。

 おれを見てほしかった。おれ越しに、誰かを見てほしくなかった。
 小さなものは肥大して、それは、胸をすっぽり覆っていた。



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