おれは、安穏とした暮らしが好きなんだ。

『少なくとも、いそやん相手におまえは凡庸には生きられねぇよ』

 志岐センパイの言葉が頭の中でずっとある。
 センパイは、思っていたよりもずっと大人で、おれの話をちゃんと聞いている人だった。
 でも、センパイの言葉には考えさせられるけど、素直にそれを認めることはできなかった。
 おれは今まで親にも、友達にも、自分の本心を伝えたことはない。
 伝えても無駄だし、言って、相手を困らせるだけならお互いに言わないほうがいいと思うからだ。気を使ってるんじゃなくて、おれが困るから。
 そういう風に生きてきたのに、磯山先生にだけそうじゃないなんて変だ。
 確かに頼りにしているし、ほかの先生よりも先生は好きだ。

 でも、ただの他人じゃないか。
 結局、最後は面倒になって見捨てるかもしれない。
 だって、先生はおれを見てない――。

 ……なんで、先生のことばっかり考えるんだろう。
 だらしなくて、競馬が好きで、オヤジ臭くて、酒臭くて、タバコ臭いのに。
 いい先生だ。うん、いい先生。課題多いけど、わからないところは向き合って教えてくれる。
 おれみたいな生徒にも普通の生徒みたいに付き合ってくれる。
 その根底にあるのは、冬島先生の存在なのだけど。

(おれは、どうしたいんだろう)

 先生にはもう、あまり近付きたくない。
 先生ともっと話をしてみたい。
 自分の中の何かが組みかえられていく感覚に、授業中も上の空で、今日は数倍他の先生に怒られた。


■ □ ■



 カラン。店のカウベルが音を奏でたら、そこには普段いない人がいた。
 ふんわりとした雰囲気のお姉さん。振り向いて、目が合ったその人はおれの名前を呼んだ。

「春樹くん、早いのねー」
「あ、お疲れ様です。佐奈さん」
「うん。今日は環……マスターが用があってね。代理で来たの」

 にこりと笑った顔は、おれの母さんと違って若々しい。
 そりゃ、あの和山那都の母親だ。
 きれい系じゃなくてかわいい系だけど、ハーフらしい瞳の色はセンパイと一緒の色。
 センパイはどちらかといえばマスターの顔に似ているけど、目や、雰囲気は佐奈さんのほうに似ているとおれは思う。

 そういえば、冬島先生って佐奈さんの父親だって、先生は言ってた。
 じぃっと佐奈さんを見る。とても、磯山先生の言ってた先生を父親にしている人には思えない。
 しっかりしてる人だけど、普段の雰囲気はやわらかくて、おとなしそうな印象があるから。

「どうかした?」
「佐奈さんって、旧姓冬島なんですか?」
「あれ? 言ってたっけ?」
「磯山先生に聞いたんです」
「あ、そっか! 秋人くんってあの学校だったわね」

 あき、秋人くん? 聞き慣れない先生の呼び方に思わず引きつった。
 その反応に佐奈さんは小さく笑って「秋人くんから聞いたんだ」と、まるで小さな女の子のように頬を染めた。



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