「羽月さ」
「はい?」
「聞いてもいいか?」
「はい」

「おまえなんかこの間から遠くね?」

 小さなテーブルを囲み、晩飯を食う。そんな普通の動作の中、磯山先生はじぃっとおれを見つめていた。
 磯山先生と一緒に暮らして二週間経った。
 バイトも着実に慣れてきたし、体は生活のリズムに安定を覚えている。
 先生との暮らしは何の問題もなく、平穏に過ぎ去っていた。

 あの、キスがあっても。

 あれは先生が覚えていない行為で、おれだけがいわば被害者だ。
 でも、いうなればそれはおれが先生に何も言わなければ無かったことになる。
 そういうものを気にしない性格だし、それでいいやと自己完結していたけど、どうやら無意識に色々だだ漏れだったみたいだ。

 先生とおれの距離を見る。
 人間二人分ぐらい離れている。別に、気にするような距離じゃない。
 生徒と教師、それを思えば普通よりもむしろ近い距離だと思う。
 向かってくる視線をジッと受け、おれは咀嚼していた米を飲み込んで口を開いた。

「気のせいじゃないですか」
「そうかぁ? おまえ、事あるごとに俺にくっついてきたじゃねぇか」
「……そうだっけ?」
「そうだよ。そういうのは、むしろ受ける側が覚えてるもんだ」

 受ける側、ねぇ。じっと先生を見た。まあ、確かにその言葉には賛同である。
 先生は覚えていない。おれは覚えてる。
 先生は違っても、おれにとってはファーストキスだった。
 せめて、酔っ払いじゃない女の子とのキスが良かった。些細過ぎる夢は、目の前の男に破られた。

「先生ってさぁ、初ちゅーはいつだった?」
「はぁ?」
「おれさ、この間初ちゅー奪われちゃったんだよ。男に」

 先生が飲んでいたビールを噴出した。
 汚い。

「げほっ、な、……はぁぁ!?」
「ね。先生はどんなだった? 女の子だった? 可愛かった?」
「おま、落ち着け」

 頭にチョップが落ちた。
 痛い。

 頭を擦りながら先生を見ると、先生は困った顔で鼻の頭を掻いていた。
 触れて欲しくない話題だったのだろうか。でも、おれにとっても触れてほしくない話題でもある。
 先生を見ていると、先生は箸を置いて溜息を吐き出しおれを見る。
 レンズ越しなのに、先生の目はどこか力強い。

「昔の事だから、忘れた」

 そう言って、先生は髪の毛を掻いた。
 嘘を吐いてる。見ただけで分かる態度に笑いそうになった。先生は普段意地悪なのに、こういうときはあからさまだ。
 でも、聞いて欲しく無さそうだからおれはそのまま聞かないことにする。
 聞いて欲しくないなら、おれは無理やり聞こうなんて思わない。

「……おれも、忘れられるかなぁ」
「いや、つーか、誰だその男。同意じゃないなら駄目だろ」
「先生の知ってる人」

 だから、このぐらいの意地悪は言っても構わないだろう。



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