磯山先生と暮らすのは、おれにとって大したことは無かったみたいだ。
 授業中、黒板に年号を書き綴っている先生の背中を眺める。
 先生と暮らし始めて一週間、毎日バイトして、飯食って、風呂入って、勉強して、寝てる。
 それが人間の暮らしなんだけど、先生と一緒って事に少しは特別な雰囲気があると思えば、実は結構あっさりしたものだった。

 ただ、先生の好みとか、先生のテレビの趣味とか、先生の女の人の趣味はわかった。
 ボンッキュッボンが好きかと思ったら、純情な感じの子が好きみたいだ。
 売り出し中のアイドルより、助手みたいなポジションの子に向かって「いいなー」って、ぼそっと言ってた。

 この一週間で先生には彼女も、好きな女の人もいない事は知っている。
 その事実におれは少し先生が心配になる。十代や二十代ならいいけどさ、三十半ばで彼女がいないのはまずくない?
 先生って子供作る行為は好きそうだけど、結婚は嫌いそうだ。
 ……さすがに失礼か。

「羽月ぃー、ボーっとしてるなんて余裕だな」
「いぃっ!? 磯山先生……」
「じゃ、ここの問題書いてみようなー口頭で教えたけど、余裕なお前はちゃんと聞いてるもんなー」

 この一週間で分かった事がもう一つあった。付け加えておく。
 磯山先生は、心底意地悪だということだ!



■ □ ■



「でもさ、俺はやっぱり磯山先生ってお人好しだと思うよ」
「……それはわかってるよ、和泉」

 休み時間、隣の席の和泉と話をする。
 和泉は見た目が女の子みたいだけど、おれより男前な性格だ。
 無意識に背中を追いかけたくなるタイプ。
 机に肘を預け、顎を手に預けている姿の和泉は教科書を広げて視線をそこに預けている。

 数学が苦手らしい和泉は、こうして前もって勉強をする。
 おれは苦手でも得意でも勉強はしないけどね。だったら寝るほうが優先だ。
 そういうおれだから、先生は危惧しておれを預かるなんて言い出したんだろうけど。

「それにしても、俺は先生もそうだけど羽月もよくやるって思うよ」
「なんで?」
「お前、泣き言一回も漏らしてないから」

 和泉の言葉に思わず固まってしまった。
 ……泣き言? どういう部分に対してだろうか。
 おれはいつでも自分の素直な感情を言っているつもりだし、考えなしかもなぁ。って、思うときもある。
 泣き言を言わないのは言えないからじゃなくて、言う必要がないからだ。

 そういうものを言って解決するなら言うけどさ、言っても解決しないなら言っても無駄だし。
 おれのこういう考えはたぶん気分のいいものじゃない。
 それは理解している。だから、そういう点ではおれは泣き言を人に言うつもりはない。

「先生も、たぶんそういう羽月に気づいてるよ」
「ふーん」
「まあ、どうにかならなくちゃいけないのはお前だしな」

 意味深な言葉は気になったが、おれは何も言わなかった。
 どうにかならなくちゃいけない? どうなればいいんだろうか。
 先生にお世話になって、和泉は優しくて、クラスの皆はいいやつで、これ以上何を望むんだろうか。

 チャイムの音が頭上で響く。
 黒板を見る和泉の横顔を、おれはジッと見ることしか出来なかった。



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