風呂に入る前、先生は困った顔を強くした。

「……ま、なんとかなるか」

 その意味を知ることになるのは、かなり早かった。


 狭い部屋だ、先生の部屋は。男の一人暮らしなら充分な広さだけど、男二人ならすこし圧迫感がある。
 壁際にある机にはコードで繋がったパソコンに資料が積もっている。
 見たことの無いものや、難しそうなそれは見る気にもなれなかった。
 いや、それよりもおれが気にしなければならないのは、畳の上にある物体だ。

 見慣れている。けれど、この状況では些か困惑する。
 風呂上り、肩にはタオル、机に向かっているのは先生。

 で、一組だけしかない布団。……そういえば、先生って独身で、35歳だ。
 布団を何組も収納できるスペースなんか、このアパートにはなさそうだった。

「……おれ、畳の上で寝る」
「うっせぇ、そこで寝てろクソガキ。布団買う暇も無いんだよ」
「せんせーが、テスト作らなきゃいいんじゃない?」
「そんなおまえに課題をプレゼントしてやろう」
「いらないです……」

 布団と机、資料や生徒の課題。それらでスペースはいっぱいだ。
 まあ、考え方を変えたら外の野宿でホームレスとランデブーより、先生と一緒に寝るほうがましだろう。
 意外にも敷きっ放しではない布団は、せんべいみたいに薄っぺらじゃなくて、お日様の匂いがした。

「せんせーは、何してるんですか?」
「明日の課題作ってるんだよ」
「おれ、簡単なのがいい!」
「知るか。よし、羽月だけにサービスで難易度を上げてやろう」
「ええー!!」

 机に噛り付いている先生に近づけば、先生は振り向いてあきれた声を発した。
 最近、勉強についていけないからキツイ。
 難しいじゃなくて、授業中寝るから分からない。一年の初期だから、そこまで難しくないけど、基礎がわからない。
 しかも磯山先生って課題が多いから、おれは課題とバイトだけで死にそうだ。

 これで難易度まで上げられたら、おれは死んじゃうと思う。まじで。
 パソコンの画面には問題が作られている。世界史のプリントみたいで、見るだけでうわー! って、なる。
 歴史は暗記って言うけど、分からないものは仕方ない。

「ったく、おまえ何のために俺が家に呼んでると思うんだよ」
「……わからない」
「まあ、いいけど。……おら、勉強見てやるからこっち来い」

 勉強? 先生を見ると、がしっと急に頭を掴まれて先生の方に体が引き寄せられる。
 痛い! 痛いよ先生それ痛い! 髪の毛何本か絶対抜けてる!!

「生徒が困ってる時に助けるのが、俺。助けを求めるのが、おまえ」
「……せんせー、なんかすっげぇ傲慢だけどカッコイイ!」
「と、いうわけで書類整理手伝えよ」
「傲慢だけだった!」

 いい人だって思った瞬間、先生はそういうものを振り捨ててしまう。
 たぶん、褒められるというか、そういう事を言われるのが苦手なんだと思う。嫌なんじゃなくて、慣れてなさそうだ。
 でもおれは、口が滑って言っちゃうことも多いし、自分が言われたら嬉しいことは言いたい人間だ。
 先生が苦手でも、嫌じゃないことだからいいだろう。

「とりあえず、お前プリント順番に並べてろ」
「はーい」

 背中には一組の布団、目の前にはプリントの山、隣には磯山先生。
 昨日までなかった世界がおれの中に広まっていた。



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