野球を嫌いになりたかった。そうしたら、簡単に逃げられると四十万は思ったからだ。
 けれど、いつまでたっても野球を嫌いになることはできず、むしろ野球をプレイしている人間を見れば羨ましくてたまらなかった。
 どうしてあの場から逃げたのか、どうして逃げる事が出来たのか。意気地無しで弱かった。責任逃れ、そうして全部佐伯に押し付けた。
 四十万が野球部を辞めたことにより、叱責は全て佐伯が受けただろうという事は予想できていた。
 それでも彼は野球をやめなかった。続けて、ずっとあの四十万が手を延ばしても叶わない世界に存在している。

 羨ましかった。
 妬ましかった。
 憎らしかった。

 毎日硬球を掴んで投げる。投球練習でコンクリートは色がすっかりはげてしまった。
 高架下、誰もいなくなったことを確認して街灯から漏れる微かな光を頼りに四十万は一心不乱に投げ続けた。
 雨の日も、風の日も、雪の日も、野球部の休みの日も。
 毎日毎日、いっそ、肩が壊れれば諦められると思いながら。一年間。
 ずっと、ずっと、投げ続けた。様々な感情を胸中でかき混ぜながら、四十万は全てをボールに集中させ、がむしゃらにボールを投げた。

 その行為が、現状を変化させない事を知りながら。

 所詮、逃げの行為だ。八つ当たりの影響を受けた壁はボールの跡を残している。その跡が物語る執着心に四十万は歯を噛みしめた。
 野球部に戻れない。野球はもう二度とできない。あの日の失敗が怖くてたまらなかった。
 先輩の顔はまともに見られず、監督の言葉は耳に入らなかった。自分のせいだと、誰に言われるよりも先にそう考えないと、自己防衛すらできなかった。


『――おまえは、悪くないよ』

 ただ、佐伯は。

『おまえが、もっとおまえらしいものが出来るように、俺がしなきゃいけなかったんだ』

 今度の試合は、佐伯と四十万の因縁の相手校との試合だ。
 もう、野球を辞めよう。高架下、無様な跡の残っているコンクリートの側面を指で撫で、四十万は俯いた。
 何度もした決意だが、今度こそ、もう二度と、ボールに触れない覚悟をする。
 最後の試合、勝っても負けても、それを目に入れて野球とは離れる。


『逃げるなよ。ずっと、待ってるから』


 一瞬よぎった佐伯の顔は、ぐっと拳を握りしめて忘却の彼方へと強引に追いやった。
 蝉の音が耳に届く。
 じわじわと背筋に宿る汗の感覚は、あの夏の日が近づいていると四十万に思わせるには充分だった。


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