四十万は、四十万だ。変わらない、変われない。
 四十万の根底には、野球をしたいと、あそこに立ちたいと、ずっとあるからだ。
 それを、佐伯は気づけても四十万は気づけない。ずっとボールを追っていた、ずっとボールを投げていた。中毒のように、ずっと、ずっと。

 四十万を掴んだ手に視線を送った。
 成長した佐伯の掌は、きっと以前より容易く四十万の球を受けることが出来るだろう。いつ、四十万が戻っても大丈夫なように佐伯は野球部に居続けている。
 野球が好きだ。ずっと続けていきたいものだ。でも、佐伯が投手として認めているのは剛速球を投げる新入部員でも、技巧に優れた先輩でもない。

 四十万、だけだ。

 四十万が野球を本気で辞めたいと言うなら、佐伯も辞めるつもりだった。
 四十万がいなければ、野球部にいてもどうでもいい。でも、違う。四十万は戻りたいけど戻れないだけだ。
 野球は好きだ。けれど、野球よりも大事なものが、四十万だった。

 あの夏に囚われ続けている昔からのバッテリー。佐伯はそんな四十万が戻ってくる事を信じている。いつまでも、ずっと。
 何も言わないけれど、言えば意地っ張りの四十万が素直に戻ってこない事を知っているから。

 掴んだ手。触れた感覚でわかった。まだ、ボールを手放していない手だった。
 家で投げているのか、どこで投げているのかわからない。ボールに執着することだけは人一倍の男が、ボールから離れられる筈がない。
 放課後、睨みつけるように、嫉妬深い女のように、じっと四十万は野球部を見つめていた。あの後、彼はいつもどこに消えるのだろうか。

 掴んだ腕は力強かった。握力だって、あの夏の頃よりもあるに違いない。
 野球部でもないのに、ずっと続けている練習があるのだろう。諦めきれていない佐伯、諦められない四十万。 

 野球を辞めた理由は夏にある。野球を始めた理由も、夏にある。
 テレビ画面の中輝く甲子園に、小さな頃、二人して食い入るように追いかけた夢。

「(待ってるから、ずっと)」

 野球は楽しい。辛いけど、苦しいけど、負ける時もあるけど。
 あったじゃないか。確かに、その瞬間が。
 勝利の喜びを分かち合って、太陽の下で馬鹿みたいにはしゃいで、それでも収まりきれなかった感情が。

 四十万。

 佐伯が小さくそれを呟く。その声は四十万には決して届かない。
 届かないが、待っている。その声が確かに四十万に届く日を。
 夏の熱を皮膚で感じる暑い中、佐伯は四十万の手を視界に入れた。ボールを投げ続けて、肉刺だらけで、皮膚はぶ厚くなり、力強い手。

 その手は諦めきれない、意地っ張りで、野球が好きな男の手だった。



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