ぱたり。

 そんな効果音が相応しい場面だった。
 クーラーの効いている図書室で四十万が惰眠をむさぼり、時間通りになるチャイムの音で目を覚まし、欠伸をし、だらだらとした緩慢な動作で図書室を出ようとしたところ、そこに、佐伯がいた。
 四十万と佐伯は夏の試合以降、直接何かを話したことも、会おうとしたこともなかった。
 二人とも、互いに互いを避けていたせいだろう。涼んでいた四十万の顔は涼しいもので、制服のワイシャツに汗を滲ませている佐伯とはまるで違っていた。

 妙な沈黙が二人を包み込む。

 何かを言わねばならないのか、何かを言った方がいいのか、頭の中でしばし考えた結果、四十万は口を噤み、そのまま何も言わずに佐伯の隣を逃げるように歩くしかできなかった。
 四十万は、佐伯を見る度に考える。
 どうして逃げない、どうしてそこにいられる、どうして責めない、どうして、どうして。
 夏の試合から、一ヶ月はあの夢を見た、野球番組は未だに見れる事がない。夏の蝉の姦しさは、全てを殺してしまいたいほどだ。
 そんな四十万とは違い、佐伯は受け止め、新しいバッテリーを組んで先を進んでいる。

 身勝手な、大馬鹿野郎。

 自身の事を、四十万は何よりも嫌悪している。佐伯に対して浮かべる醜い嫉妬、逃げ出さないその強さに憧れもする。
 けれど、なによりも浮かべてしまうのは、野球をしている佐伯に対して、チームメイトに対して、羨ましいという言葉だった。

「待てよ、四十万」
「――……」

 久しぶりに聞いたバッテリーの声は、張りがあり、萎れてしまった四十万とは違うのだと声で察することができた。
 逃げ出したのは四十万からだ。それなのに、四十万は羨ましがることしか、憧れることしかできない。好きなものを、ただ、好きという理由だけで続けるには些か年を取り過ぎた。欲を、覚えすぎた。

「今度、おまえとの試合で負けたチームと試合する」
「……そうかよ。今度は、勝つんだろ。新しいバッテリーも組まれたみたいだし」
「……」
「もう、関係ねェよ」

 関係ない。そう言ったのに、その言葉を一番に否定したのは四十万だ。
 ぐっと掌に爪が真っ白に染まるまで力を入れ、拳の形にすると佐伯がその手を掴み、四十万。と、真正面から瞳を合わせた。
 近い顔、いつ以来だ、日に焼けた皮膚、短い髪、真っ直ぐ伸びてくる安心感のある眼差し。捕手はこいつだけだと、笑いながら言っていた日が頭によぎった。

「逃げるなよ。ずっと、待ってるから」
「……っ! 離せ!」

 踏みしめたリノリウムの床は、夏の季節とは思えないほど冷やかで、四十万は佐伯の熱から逃げることしかできなかった。



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