「ったく、いきなり頭の上から降ってくるとかおまえなんだ、なに目指してんだよ。空を歩くのは気狂いウサギだけで上等だろ。それともなんだ、おまえ、あのウサギの仲間かよ」

 有里栖が落下時のクッションにしてしまった男は、その風体も変わっていたが口を開けば出てくる言葉も変わっていた。
 有里栖に話しかけているようで、一切彼の返答を求めておらず、自己完結しているような言葉が多い。
 ぽかんと口を開き間抜けな顔で有里栖が男を見つめているが、男は有里栖がいる場所とは真反対の方に向かって説教をしていた。

 見えてないのかよ!?

 ツッコミそうになったが、それを言ってしまえば面倒事が降りかかることは火を見ずともわかる。
 男の身長が高いためか、頭のシルクハットに目が向かうが腰を地面に落としたままの有里栖の視界には男の腰に巻きつけられた長い刀が見えていた。

 偽物ならば有里栖も剣道有段者の腕前を持っているため、なんとかなるかもしれない。
 しかし、本物であればどうあがいても勝てないだろう。
 逃げる算段を考えていた有里栖だったが、思考はまとまらず、帽子の男はついに声音に苛立ちを含め始めた。

「おい、クソガキ。黙ってねェでなんとか言え。口がねぇのかてめぇは」
「……口は、ある」
「だったら最初から応えろグズ」

 高圧的な態度にひくりと有里栖のこめかみが動いたが、帽子の男は見えていないのでそんなことに気付かない。

「つーか、マジなんで空から落ちてきたんだよ。なに、おまえ新しいヤツ? 誰か死んだか?」
「……死? 俺だって好きで落ちたわけじゃない。何が何だか分かんないし……」
「――まぁ、誰か死んだらオレがわかるし、だったらクソウサギが何かしたんだけど……」

 さっきから聞こえてくる物騒な言葉に知らず知らず眉根を顰める。
 地面に座りっぱなしの彼に合わせるように、帽子の男は腰を下ろした。
 真正面に視線が向かうように男は姿勢を変えるが、帽子のせいで目線が合う事はない。

 有里栖は伺うように男を見やり、男はそんな有里栖の頭をがしっと掴んだ。
 なぜか視線はずれている筈なのに、掴む手は的確に有里栖のこめかみを刺激していた。
 ぐっと力を込められた手に従い、脳を掴むような痛みが襲った。

「いでででででで!!」
「おい、おまえまさか」
「なっにすんだよ!?」

「――アリスか?」


 有里栖の奥にある心臓が、一瞬だけ動きを止めた。
 アリス。
 その名前は、あの、白いウサミミをつけた男が有里栖を見て放った名前。

 アリスと言葉を吐いた帽子の男の動きが、苛立ちから一変する。
 声は弾み、笑い交じりに変わっていく。
 顔の見えない男の声は楽しげで、有里栖はその事に背筋を戦慄かせた。
 頭を掴まれていた手は外されたのに、痛みは全身に移動し、妙な胸騒ぎが確信へと変化していく。

「ははっ、おい、アリスかおまえ! そうだろ、クソウサギ、やっとアリスを呼んだのかよ、長かったなオイ! アリスだ、アリス。やっとここにアリスがきた!」
「ちょ、おい、」
「アリスか、やっときた、オレらのアリス、ようこそ、アリス―――ワンダーランドへ」

 不思議の国、ワンダーランド。
 残虐なまでの純粋さ、鋭く光らせる禍々しい好奇心、奇異な存在の集結点。
 唾液を呑み込む音が、有里栖の耳の傍で聞こえた。

「アリ、ス、って」
「ん?」
「どういう、ことだよ」
「アリスはアリスだ。それ以上でもそれ以下でもない。……なんだ、おまえはアリスのくせに自分の“役名”を、忘れたのか?」
「やくめい?」
「オレは帽子屋。まあ、この世界では紅茶卿だとか、修理屋とか皮肉を言う奴もいるがな」

 茫然としたまなざしを向ける有里栖に帽子屋と名乗った男は、彼を支え二本の足で立たせた。

「シロウサギから何も聞いていないのか?」
「シロウサ――」


『――アリス』


 白いウサミミの変質者?
 地面と空の揺れる不快な感覚を覚えながら、有里栖は倒れそうになる体を叱咤し、ぐっとその場に踏ん張った。
 今は、その場に立つだけでも苦しくてたまらなかった。




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