有里栖が体感している感覚に分かりやすい例を挙げるのならば、ジェットコースターの急直下で内臓がふわっと浮いた感覚を永続的に続けている感覚だろう。
 黄昏は消え、周囲は暗闇に塗りつぶされる。暗転した世界の中、有里栖は現状把握に勤しんでいた。

「はあああああ!? 意味わかんねぇんだけど!? 何これ何この状況!!? なっ、はぁああああああ!?」

 だが、それは容易ではなく口から出てくるのは疑問と、無駄な叫びだけだった。
 白いウサミミを頭につけた不審者極まりない美形の言葉を思い出そうとするが、暗闇に入った瞬間聞こえてくる時計の音が思考の邪魔をする。

 カチコチ、カチコチ。
 カチコチ、カチコチ。

 耳を劈く四方八方から響いてくる時計の音。
 鼓膜から全神経を狂わせんばかりの響き、暗闇に落ちているのか、吸い込まれているのかわからぬ状況。
 一体ここはどこで、一体何に巻き込まれており、一体どうして――こんなことになったのか。

 有里栖は半ばやけくそで思考を続け、その果てを見出す前に暗闇の果てを見出した。
 足元にわずかな光が見え、肉眼で確認した時に世界は瞬き広がって行く。
 暗闇に慣れていた目は眩さに眩み、自然にまぶたが落ち、開いた瞬間世界も開花した。

 市松模様の赤と黒の煉瓦の歩道、緑に覆われた森、薔薇で支配されている小高い場所にある城、一部の建物を覗けばほぼシンメトリーの街。
 が、有里栖の足もとに広がっていた。

「お、おい、ふざ、ふざけぎゃあああああああ」

 今まで暗闇を落ちていたためか、驚きの方が大きかったためかそこまで恐怖を感じていなかったが、自身があの場に落ちることを考えた瞬間脳裏に鮮明な想像ができた。
 死ぬ。間違いなく。
 浮かんでいた内臓が喉元まで上る感覚、有里栖は歯を噛みしめ、ただ、恐怖に、死の瞬間を待ち構えることしかできなかった。

 一体俺がなにをしたのか。
 彼女もいなかった、両親は若干痛かった、平々凡々な人生で面白みもなく、慎ましやか過ぎる人生だった。
 こんなにも早々に今までの人生を振り返ることになるなど、想像だにできない。

 死にたくない。
 怖い。
 いやだ。
 街の景色が近付く、終わりだ。

 死ぬんだ。
 死んで、しまう。

 時計の音が響く、有里栖の頭の中で金の根のように響いていた音が。
 カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ。


「んぁ?」


 間抜けな、布越しにフィルターのかかったくぐもった男の声が有里栖の鼓膜に響いた。
 その声を耳に入れた瞬間、時計の音は止まり、有里栖の体は一瞬止まり、ぐしゃっ。と、高度何千メートルから堕ちたにしては実にかわいらしい音で人の上にダイブした。

「いっつー……」
「ってぇ……」
「……は、俺、な、え――生き、て」
「重ェなクソ! さっさとそこから退きやがれ!!」
「あ、す、すみま――」

「ったく、いきなりなんなんだよ」


 ああ――神様。今まで信じていなかったけど、頼ってもいいだろうか。
 仏様でも、マリア様でも、御釈迦様でも、なんでもいいから!
 変質者に出会い、地面から空、そして地面に落ち、今、目の前には一人の男。

 パニックに襲われ、今なら誰にでも頼ることができると断言しかねない有里栖の双眸に入り込んできたのは、街中にいたら絶対に捕まる様な風貌の男だった。
 身長、もとい、全長約2メートルはあるだろう大男。
 黒いエプロンに白いシャツ、清潔感のある喫茶店の服装の男の頭にはシルクハット、それも、顔をすっぽり覆いかくして頭の位置などわからないほど大きなもの。
 風で飛ばないための工夫か、首の辺りにはシルクハットを止めるためのゴーグルがあった。
 どう見ても頼ることはできない。むしろ、その男は関わりたくない部類に入るだろう。

 なんなんだよ、さっきからよぉ!

 悲痛な悲鳴は声にもならず、ただ、先程すりむいた掌の痛みが悲しいかな、現実だとしっかと有里栖に伝えていた。




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