あれはいったい、なんだったんだ? 友人と別れてから、有里栖の頭を占めるのはその言葉だった。 聞こえていたはずの時計の音は消え、薔薇の影は霧散する。最初からなかった幻のようにかき消えていた。 疲れすぎて見えた幻覚かと考えもしたが、鼻に触れた香りは存在を主張する。 薔薇の存在、時計の音、馴染みあるストーリーの始まりに有里栖は帰路についていた足をとめた。 「……いくらなんでも、親に感化されすぎだろ、俺」 妄想とでもいえそうな考えに、自ら呆れてしまい大きな独り言が漏れた。 幼い頃からの英才教育と言っても過言ではない両親のアリス好きは、その話を嫌って遠ざけた有里栖の血脈に嫌々だが受け継がれている。 物語の始まりは好奇心旺盛な女の子と、白ウサギさんとの出会いよね! 音符のマークが語尾に飛んでしまいそうな母親の言葉、浮かんだ言葉に項垂れた。 寝よう、家に帰って。 風呂に入って寝たらきっと疲れもとれるはずだ。 抱えていた竹刀を持ち直し、有里栖は止めていた足を一歩家に向かって前進させた。 きっと、さっきのものは疲れから見えたもので、香りも香水のきつい人でも以前に通っていたのだろう。そう、結論付けて。 「――ねぇ、」 ぞわりと、背筋に悪寒が走った。 恐怖とか、寒気ではない。本能が何か、危険を知らせるために有里栖の体に知らせた。 聞こえてきた音は、背後からのものだった。 誰か別の人間に話しかけた音にも聞こえたが、有里栖は、それが自身に向けられた言葉だとなぜか察することができた。 短すぎる言葉だったが低音のそれは耳触りがよく、誰が聞いても、どの世代が聞いても惚けてしまいそうな声だった。 そのような声だが、無機質で色がなく、まるで、人間として熱があるのか判断ができない様な音で。 危険を知らせている体が、まるで操られるように動いた。 人通りの少ない時間帯、明るい夕方の景色が消えて行き、暗闇に塗りつぶされる空の端ではオレンジ色と紺色が混ざり不快な色を生み出していた。 合間に存在している雲は細く長く伸び、まるで有里栖を飲み込もうとしているように見えた。 「キミ、さっき見てたよね」 真っ赤な目だった。夕日よりも赤い、薔薇よりも赤々しい、まるで血肉の様な瞳の色だった。 ヒュッと有里栖の喉の奥が鳴く。 恐怖の音か、それとも戦慄く体がこぼした音か有里栖には判断できなかった。 背中に立っている鳥肌、ぷつぷつとしたそれは全身を侵略する。 「ねぇ、見てなかった? と、いうよりも今も見えてるよね」 背は高く、声は甘い。黄昏の日を浴びた髪色は元の色を判別できないが白か、銀色なのだろう。 瞳は赤く、皮膚も白い、だらしなく緩められた赤と黒のボーダーのネクタイの下にある白いシャツは、裾がはみ出ていた。 ベルト代りのチェーンをぐるぐると腰に巻き、その先には懐中時計がぶら下がっていた。 しかし何よりも特筆して饒舌に語るべきなのは頭のてっぺんを泳ぐ耳であろう。 普通の人間ならばあるはずの顔の側面に付加している耳がない。 その代わり、頭のてっぺんには白い耳が高々と存在を主張していた。 整いすぎた美形、恐怖を覚えるほどに幻想的。だが、ウサミミ。 へ、変質者。美形の、変質者だ…。 「……ねぇ、聞いてる?」 ウサミミの変質者を前にし、有里栖は今まで感じていた恐怖とは別の恐怖を覚える。 女子ではなく、男子剣道部に所属している彼は男で、間違いなく痴漢の被害にあう事はない顔立ちだ。 快活であり、それなりにしっかりしているため、むしろ痴漢から女の子を守ることに憧れる健全な男子高校生である。 男は、どこに持っているかわからないが薔薇の花を巻き散らかせながら一歩、有里栖に近付けた。 肉厚の花弁を容赦なく靴先で踏み締めながら、白い手袋に包んだ手を有里栖に伸ばした。 「キミさぁ、もしかしてさ、アリス?」 「――え?」 「あぁ、そう。キミ、アリス? ねぇ、アリスなの? キミは、アリス?」 「は、ちょっと、あんた」 「アリスかぁ、面倒だなー、別にどうでもいいのに。なんでかなぁ、このままでもいいじゃん別に、そんなにいやだったのキミ、どうでもいいのになぁ、私はこのままでも」 怖い。話の通じない相手に有里栖は一歩引く。何より何故、このウサミミの変質者は有里栖の名前を知っているのか。 ご近所の奥さまや、学校の一部の生徒は剣道部の菅家有里栖として知っているが、どう考えても美形のウサミミ変質者に知り合いはいない。 男はだるそうな仕草で深い溜息を吐きだし、真っ赤な眼差しを有里栖に向けた。 冷やかな眼差しの中に、赤色の瞳の中に、有里栖の姿が浮かんでいた。 「アリス」 「……な、なんなんだよ…!?」 「最初は帽子屋を尋ねるといい、女王はキミを愛しているけどあそこにはロリコン兵士がいるからね」 「は、はあああああああああああ!?」 意味がわからん!? はぁ? そう、吐き出そうとした言葉は叫び声となって伸びた。 白いウサミミの男が腰にぶら下げていた時計を触った瞬間、有里栖の足もとは何も存在せず、彼の体は空中に放り出された。 「……あーあ。面倒だなぁ、面倒だなぁ、なんでアリスがいるのかなぁ、あーあ。面倒だなぁ。早く―――死んじゃえば楽なのかなぁ」 ひくひく頭の上で白ウサギの耳が動く。 彼の耳はいつまでも長く有里栖の喧しい悲鳴を拾っていた。 |