昨今の若者は、自身につけられた名に誇りを持てるのだろうか。
 ある新聞には、幼稚園の靴箱の名を見るとまるで源氏名ばかりではないか。と、嘆く言葉が聞こえたほどだ。
 若いうちならまだいい、しかし、中高年になった際、その子供が名を継いで本当に親に感謝し、誇りを持つことができるのだろうか。
 当て字、しかも当て字であってもその読みではない漢字。
 好き勝手に名を与える親は楽しいかもしれないが、与えられる子どもの未来を考えれば、その行為が一体どういうことにつながるのか考えることも必要だろう。

「菅家有里栖」

 彼の名前の由来は「不思議の国のアリス」からだった。
 ファンシーかつ、ファンタジーな不思議の国に迷い込む話が、彼の両親は大好きだった。
 愛らしく、好奇心旺盛で、しかしどこか陰鬱とした世界観。
 世界が愛する話の一つ。その話を彼の両親は愛していた。
 別に、そこまでは個人の趣味の範囲で構わない。好き嫌いなど個人の範疇でしか測れないのだから。

 しかし、そんな両親を持つ彼は違った。
 黒髪、黒い目、程ほどの身長、学ランに身を包み、片手には竹刀を持つ。
 剣道部に所属し、そんな不思議の国のおとぎ話など一切関係ないはずの彼は、両親により一生自身の名を恨むことになったのだから。

「アリスー、帰りゲーセン行かね?」
「アリスって呼ぶなつったろ! 行くか馬鹿!」
「あ、わりィ」

 思春期を迎えた17歳男子高校生である彼にとって、自らの名前は恥でしかない。
 子どもは女の子が欲しかったという両親は、生まれた子どもに歓喜したものの、産まれてくる子は女の子だと信じて疑っていなかった。
 そのため、男子の名を用意していなかった。
 用意されていた有里栖の名は残念ながら使用され、17年間ずっと使い続け、これからも使い続けることになるだろう。

 それは間違いなく苦痛で、間違いなく恥辱で、この数年、ずっと彼は自分の名を忌み嫌って生きていた。
 そして、それはこれからも続く思いだろう。


「菅家、明日の部活どうする? 先輩試験で二年と一年は自主練だろ」
「俺は行くわ。貸してた漫画の本ロッカーに忘れてきたからな」
「おれどーしよ。そろそろ道着洗濯しねぇと匂いがな」
「知るかよ……」

 有里栖は小さく息を吐きだし、本気で悩んでいる部活仲間から視線を外し、ふと視界に何かを入れた。
 “何か”としか称することができなかったのは、今まで生きてきた年月の中でそれを見たことがなかったからだろう。

(なんだ、あれ)

 陽炎? 知っている単語を思い浮かばせたが、どうにもピンと来なかった。
 蜃気楼、陽炎、何かが違う。

 見慣れた場所に、見慣れない何かが浮かんでいた。
 夕日の中、赤く染まっているそれは太陽ではない。薔薇だ。
 薔薇だけなら特に何も思わないが、それはぼんやりと周囲の空間に溶け込み空中に浮かんでいた。
 しかも、薔薇だけではない。薔薇の花弁の中心には時計の針があった。

 カチコチ。
 カチコチ。
 カチ コチ。
 カチ コチ。

 耳からではなく、頭に直接響く音に眉を顰め「なぁ」と、隣にいた友人に視線を向けた。

「どした?」
「いや、あそこに――」

 なんか、変なものが。

「……どこに?」
「あ?」

 鼻先に薔薇の甘い芳香がした。
 手掛かりはそれだけ、もう、空間に薔薇も、時計の針も浮かんでいなかった。

 ――不思議の国のおとぎ話。
 ――嫌悪し、避けて、通った話。
 ――愛らしく、好奇心旺盛で、陰鬱とした世界。

 アリスの通る、アリスの世界。
 赤い薔薇の花弁が夕方の空にひとつだけ、飛んでいた。




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