「ビルさん! 白ウサギはどこにいるんですか!」

 ビルという心強い味方を得、有里栖は興奮気味に声を荒げた。どうにかなる、なんとかなる、そういう気持ちが腹の底から不思議と湧いてくる。
 急に元気になった有里栖に苦笑を浮かべ、ガリガリと頭をかきながらビルはふむと顎に手を添えた。

「白ウサギに会う事も大事だが、君はまずこの世界の事を少し学んだほうがいいと思うね」
「でも俺は早く元の世界に!」
「急くのも分かる。でも物事には順序がある。君は黒か赤を選び“審判”である白ウサギに答えを導かなければならない。それが“アリス”としての君の役割だ」

 役割。役名。審判。アリスの名前。
 ビルの落ち着ききった言葉を耳にし有里栖は彼女を見やる。トカゲのように冷ややかな眼差し、爬虫類の冷たさが今の彼女にはあった。
 似たような言葉を帽子屋からも聞いた。黒か赤を選ぶ。
 理解できないその言葉に有里栖はしばらく口をつぐみ考える。

 彼の知っているアリスの話はこことはまた別の作品らしい。
 ここにいる存在は物語のアリスに出てくる役名を持っているが、詳しくは物を語ろうとしない。
 白ウサギに会うことばかりを進められ、または敵愾心をむけられたり、殺気を放たれたり。ろくなことがない。
 薄々感づいていたが、ここは有里栖の知っているアリスとは別物の世界らしい。

 よくわからない単語が出てくる。一日で経験するにはいささか情報量が多すぎ、濃密過ぎた。ビルの言葉に改めて息を吐きだし落ち着くように自分に言い聞かせた。
 視野が狭くなり何も考えられなくなる。そうなる前に、落ち着いて何から手をつけるべきか考えた方がよほど効率的だ。

「……なにから、すればいいんですか」
「……成程、今回のアリスはなかなか順応が早い。性格なのか育った環境なのか気になるね」
「理不尽な扱いに慣れてるだけです。ビルさん、教えてください。俺は何からすれば、」
「なにも。君がしたい様に行動すればいい」

 コーヒーのなくなったマグカップを机の上に置き、ビルは両腕を机に乗せ掌に顎を置く。行儀悪く有里栖を見やる視線は冗談を言っている様子がない。
 したいように動き、思うままにすればいい。繋げられた言葉に有里栖は戸惑う。
 今まで真摯に向き合ってくれていたビルから唐突に突き放された気さえする。

 不安が顔に出たのだろう、ビルは苦笑を浮かべぐしゃりと有里栖の頭に手を置く。細く、爪が長い。女性の指にカッと有里栖の頬に朱が走った。
 男子校に通っている有里栖は女性経験がない。そもそも出会う機会がないのだから。
 中学の頃はこの名前で女子より可愛い名前といわれ、苛立ちから剣道に打ち込み更に強くなってしまった。

 女の子が好きだ。でも、正直、苦手な彼は大人の女性であるビルの行動に赤面し、逃げる事も出来ずうつむくことしかできない。
 有里栖のつむじを眠たげな眼差しで眺めていたビルは彼が耳まで赤く染めていることなど気付く事もせず、優しく触れていた手を離した。

「アリスはこの世界において唯一無二だ。誰も君を咎めない。生きるの死ぬも自由にすればいい」
「お、俺は、その」
「アリスは決断する者。君はこの世界を見極める必要がある。この世界を見捨てる事も出来る。君はこの世界で誰よりも自由で、誰よりも不自由だ」
「……」
「今日はもう疲れただろう。休みなさい。帽子屋のところで寝床でも貰えばいい。あいつは店をしているから無駄に部屋はあまってる筈だ」

 窓の外を見る。極彩色と鬱蒼とした色が重なっている。こんな場所で一人住んでいるビルを思い、有里栖は心配そうに彼女を見た。
 今更だが、こんなどう見ても危険そうな場所にビル一人で住んでいるのかと思えば、有里栖はすこし心配になる。親身になってくれる存在らしいので尚更だ。
 くぁと欠伸をこぼしているビルは平然としており、長年ここに住んでいるらしいので問題はないだろうが少しだけ、気になった。

「色々ありがとうございました。俺、とりあえず帽子屋のところに戻ります」
「そうしなさい。話を聞きたければいつでもどうぞ。鍵は開けっ放しだから好きに入りなさい」
「……危なくないんですか? 帽子屋みたいに街中に住めば」
「外に出たくないの。私引きこもりだから、じゃ」

 バタン。

 扉の音が無情に閉まる。
 親身になってくれる女性。爬虫類を想わせる冷たさを持ちながら有里栖の話を真剣に聞いてくれる。優しい年上のお姉さん。
 極彩色の植物咲き乱れる薄暗い森に住み、その部屋の中は埃が雪の様に降り積もる本の塔立ち並ぶ場所。

 そして、まさかの、引きこもり。

 濃い。濃すぎる。なにもかもが。ハイスペック、ハイリターン。この世界の人間はやはり、どこかおかしいと再認識した。




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