「役名は“トカゲのビル”白ウサギとの仲介役って言われてる。赤と黒の狭間の存在。尤も――個人的には帽子屋を応援したいけど、まあ、この辺は関係ないと思う」

 トカゲのビルと名乗った女性は、有里栖を家に案内し、キッチンと思われるところでコーヒーを用意しながら自己について語った。
 耳に入り込む音は女性の割に低くアルトの音程だろう。
 耳触りのよいそれは、銃声や刃の世界に身を投じかけていた有里栖に緩やかな感覚を覚えさせた。

 ビルの部屋の窓から見える風景は歪で変わっているのだが、彼女の家の中は普通だった。家具があり、本が多く、女性の一人暮らしにぴったりの広さ。
 ただ、普通よりも汚かった。

 なぜ床に紙屑がこんなに散乱しているのか、柱の様に積み上げられた本が微かな振動で揺れる。埃がまるで雪の様に積もっている場所もあった。
 年上の美人な顔立ちの女性と二人きりで胸を高鳴らせる。という甘い体験はこの部屋ではできそうになかった。

 有里栖は別に綺麗好きというわけではないが、これは人の住む場所ではない。
 来客用らしきスリッパが床に散乱する服の下に埋まっているが、これだけ部屋が汚れると客も土足で踏み込むしかないだろう。
 数ヶ月ではなく、明らかに数年単位で掃除をしていない部屋の中、埃の気配でくしゃみをする有里栖とは対照的に慣れた様子でコーヒーを用意しているビルは有里栖の様子を気にする素振りもなかった。
 
 トカゲのビルは、平然と椅子の上にまで置かれていた本を床に置きそこに座った。
 部屋を片付けるという意思は、そこに一片の欠片も感じる事が出来なかった。

「さて、君がここに来たという事は帽子屋と無事接触し、なおかつ女王に出会わなかったと思っても?」
「あ、はい……」
「白ウサギも面倒くさがり極まりないけど、この世界で私は二番目に面倒くさがりだ。だから、知りたがっている事は簡略に、適当に応えることにしてる」

 眼鏡越しに射抜くように伸びるビルの視線に有里栖はごくりと息をのんだ。金色の目は爬虫類を連想させる。瞳孔が細く縦長で、白い皮膚は白衣の中に解けてしまいそうだ。
 深緑の合間に覗く金色は冷たく、有里栖の背をぞわりと視線だけで舐めたのだ。

「……何を考えているかわからないけど、私は君に危害を加えたりしない。中立者だから動向を見守るだけ。君を守ろうとすれ、危害は加えない」
「え、あの……すみません」
「構わないよ。白ウサギの馬鹿が説明を省いているのが悪い」

 薄汚れたマグカップの中にあるコーヒーを飲み込み、ビルはシニカルな笑みを浮かべる。
 白ウサギ、帽子屋、赤の騎士、三月ウサギ。
 今まで出会った存在とこのビルは圧倒的に何かが違う。有里栖は先ほどとは違う意味で唾液を音を立てて飲み込み真直ぐにビルを見据えた。
 微かにビルの笑みが濃くなる。薄汚い部屋の中、彼女の存在だけが美しく、しかしほの暗い印象を与えていた。

 白ウサギと会える。

 有里栖はビルと対面し、彼女と僅かに言葉を交わしなぜか確信した。
 この人は帽子屋や騎士とは違う。明確に彼女は誰の味方でもないことを明言し、有里栖を助けてくれると言っている。
 鼻先に届く埃は鼻孔をくすぐり、不快感を伝えてくるが今はそんなものも気にならなかった。

「白ウサギに、会えば」
「うん?」
「白ウサギに会えば、俺は元の世界に帰ることができますか」

 ビルの目が大きく見開き、楽しげに表情を歪ませた。女性の顔立ちは整いすぎてその表情はまるで絵画の中から人が飛び出してきたようにもみえる。
 極彩色の植物と本棚の塔を背にしながらビルは頬笑み、くっと声に出して小さく笑った。


「――アリス、君が望むなら」


 その言葉はまるで魔法の様に有里栖を救った。
 ビルに言われて改めて理解した。どこにも属さない、有里栖だけの存在。ビルの言葉に有里栖はこの世界に来て漸く心から笑う事が出来た。
 望みがあるなら、頑張れる。この非現実的な現実を終わらせるために、有里栖は更に白ウサギの存在を希求した。




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