この世界に名前はない。

 通称として、過去のアリスがつけた「ワンダーランド」というものがあるが、正式な名前はない。国名はないが、国として成り立っている。
 国は現在二分化され、黒の陣営と赤の陣営に分かれている。
 国民は特にどちらかに所属しなければならないという決まりはなく、生活に変化はない。ただ『役有り』は所属を決めなければならない。
 
 『赤の女王』『黒の帽子屋』分断されたワンダーランドで、昔から争っている役有り。戦争行為は特にない。ただ一つの勝利条件。

「それが、アリス」
「……?」

 アリスを手に入れること。それが絶対唯一の勝利条件。
 アリスは万能、アリスは世界、アリスは勝利。
 この国の通称をつけた過去のアリスが持って行ってしまったものを、今度のアリスに作ってもらう。それが、この国でトップに立つための条件。誰が決めたか分からない。でも、それは絶対の条件だと皆が知る。

「アリスはオレ達にとって、特別で、唯一で、絶対の存在だ」
「役有りは特にな」
「だからおまえは絶対に守る。赤の陣営からな」

 帽子屋の話を聞いているうちに、有里栖に用意されていた紅茶はすっかり冷めてしまった。その間、帽子屋は三杯の紅茶を飲みほしている。
 三月はいつの間にか眠っており、小さな寝息が聞こえている。
 外は昼間の空気から、しっとりと濡れた夜の空気に変化していた。

 帽子屋から話を聞いた有里栖だったが、正直な話よく理解できなかった。
 とりあえず国が二分化している事、黒の陣営と赤の陣営で分断されている事、特別な存在がいること。勝利の条件に「アリス」が必要であることはなんとなく理解できた。
 ただ、どうしてアリスが必要なのか、何故そんなルールが出来たのか。帽子屋は一切説明をすることはなかった。

 説明する気もないのだろう。話終わった彼は紅茶のお共にスコーンまで取りだした。
 シルクハットの下の顔は想像だが、きっと笑みに満ちているのだろう。
 有里栖はそんな帽子屋を直視する事も出来ず、ただ、視線を下げ自分の両拳を見ることしかできなかった。

「俺は、」
「ああ」
「これから、どうなるんだ」
「――“アリス”として、この世界の成り立ちを見てから決めろ。オレは“帽子屋”で“黒の陣営”のトップだ。最終的に赤黒の勝敗を決めるのはアリスの決断だからな」
「意味がわかんねぇよ……」
「だろうよ。普通は白ウサギが導き手なんだから。オレらは所詮、駒だしな」
「駒」
「役有りは、必要最低限のものしか知らなくていいんだよ」
 
 帽子屋の言葉に有里栖は眉をしかめたが、帽子屋は喋らないというよりも喋れないと表現した方が正しいのだろう。口を噤み、彼は紅茶を飲む。

 白ウサギ。
 理解不能の言葉を吐きだし、有里栖をこの世界に落とした張本人。
 握っていた拳に力が入る。あいつが。あの、ウサギが。全ての原因、全ての始まり。有里栖をアリスにする要因。
 眼鏡の奥にある、冷ややかな視線、甘い薔薇の香りが蘇った。有里栖の記憶の中の彼は怠惰で、面倒くさがりで、それで――。

「白ウサギには、どうやったら会えるんだ」
「……白ウサギの居所はオレ等が知りたい情報だな。だって、あいつを殺した方がある意味楽だからな」
「え……?」
「まあでも、ほかならぬアリスの頼みだ。白ウサギの居場所は知らねェが、白ウサギの仲介人なら紹介できるぜ。そいつもなかなか気難しい中立の、根暗だがな」




◆ ◇ ◆

 白い耳が跳ねる。深い闇の中、湖面に立つ彼の足もとには波紋が広がっている。
 広がる波紋が重なる場所、そこには顔を真っ赤にして怒鳴っている子どもの姿が見えた。その隣にはデロデロの赤い騎士の姿だ。
 別の波紋には珍妙な姿のシルクハットの男に、無関心を貫く三月ウサギ、そして。

「アリス」

 彼の姿を確認し、兎が溜息を吐きだした。
 そこには呆れとか、面倒とか、そういう感情が含まれている。彼をこの世界に突き落とした罪悪感は一切ない。

 チクタク。チクタク。チクタク。

 時計の音が大きくなる。波紋も徐々に広がって行く。白ウサギは再度溜息を吐きだし、目の前の黒い壁に手を突き出した。壁にはいつの間にか扉が現れ、白ウサギは純白のカギを握る。
 面倒だなぁ。
 小さな声が闇の中こだまする。波紋は瞬く間に消え、白ウサギは扉を開いた。

「……また来たの」
「私だって来たくはないけど、アリスが呼ぶから仕方なく」
「あっそ」

 闇の中交わされる言葉を聞く者は存在せず、ウサギは扉を閉め世界に飛び出す。

「面倒だけど――ワンダーランドのお伽噺、始めようか」

 チク、タク。
 時計の音は相変わらず、反対に回り退化する。




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