重々しい銃声は真直ぐ騎士を狙っていたものだった。
 ぎゅっとまぶたを閉じ、有里栖は目の前の光景から視線をそらしたが「何すんだよ」と、聞こえた声に目を開いた。
 赤の騎士は平然とそこに立ち、やる気のない眼差しで灰色のウサギを見据えていた。
 剣の刀身は真直ぐ灰色の兎を狙っている。その切っ先の背後、騎士の足元には分断された銃弾が地面に埋め込まれていた。

「おいおい、横やり入れてくれるなよ三月くん」
「……」
「サンガツ! アリス捕まえて店に行ってろ!」
「面倒」
「あいかわらず堕落してんなぁ三月くんは」

 構えた銃を下ろすことなく、カツンと靴音を響かせ三月と呼ばれている青年は帽子屋の傍に身を置いた。
 有里栖を背にすることは忘れず、彼は細くつり上がった眼差しで騎士をにらみつける。
 ひしひしと感じる寒々しい空気に有里栖はごくりと息をのんだ。
 止められない、間にも入れない。知らずににぎりしめた拳は微かに骨のきしむ音も聞こえてきた。

「――こりゃ、分が悪ィな」
「……」
「少なくともうちの女王様はアリスを所望しているし、三月くんと帽子屋相手に無茶するほど俺も若くねぇしなー…」

 ぶつぶつと呟く様は、先程の幼女について語っていた男とはまた違う恐怖を感じる。
 うすら寒い、何かを計画しようとしている騎士の姿に有里栖は目を離す事が出来なかった。

「しゃーねぇな。この場は“黒の陣営”に任せる、か。じゃあな、老婆趣味共!」
「てめぇがロリ趣味なんだろうが死ね!!」

 嵐のように登場し、嵐のように去っていく。騎士が最後に有里栖を視界に入れた事を有里栖は理解している。目を離せなかった、だからこそ、目が合ってしまった。
 薄気味悪く歪んだ眦、何か楽しそうなものを見つけた子どもの様な表情。
 三月と帽子屋を前にしても飄々とした態度を貫いた男の底は、決して覗けるようなものではなかった。




◆ ◇ ◆

 カウベルの音を響かせ有里栖はひとまず帽子屋と、三月ウサギと名乗る青年が案内する彼らの店に足を踏み込んだ。
 落ち着いたジャズ調のBGMが店内にひっそりと響き、鼻先に掠める紅茶の甘い香りは今まで展開についていけなかった有里栖の心をわずかだが落ち着かせた。
 店に名前はなく、ただ「紅茶、コーヒー、軽食」とだけ店の看板には書かれていた。
 ゴムの木が店内には飾られ、木目の美しい店内にどこか子ども心を想わせる内装は、北欧の世界を連想させた。

 不思議な店だった。
 客は今までの騒ぎでいないことは予想できていたが、一歩足を踏み入れた時なにか良く分からない感覚があった。
 今まで存在していたものが欠けて、不安定になっているような。有里栖は唐突に自分の中の何かが減る感覚を覚えた。どう表現すべきか分からなかったが、妙な不安を覚えたのだ。

 心情的にはどこかで知った空間に落ち着く。しかし、感覚的には欠如の不安を抱く。
 店内の雰囲気は有里栖の好むものだった。決して先程の争いがあった場所に行きたいわけではなかったがあの場の方が有里栖にとって落ち着く場所だった。

「とりあえず、アリス。コーヒーと紅茶どっちがいい?」
「……どっちでもいい」
「じゃあ紅茶な」

 先程まで刀を振り回し、騎士相手に罵詈雑言を吐きだしていたとは思えない帽子屋は、シルクハットを目深に被っているにも拘らず器用に紅茶の用意をする。
 その隣で、三月と呼ばれていた青年は欠伸を噛み殺し、チェアーに腰かけぐるぐると呑気に回転していた。

 一体ここは、どこだ。
 一体ここは、なんだ。
 一体、ここは。
 ここは。

「――どこまで、白ウサギから聞いてる?」

 カップとソーサーから軽い音が響き、有里栖の前に置かれた。
 視線を帽子屋に向けると、彼はカップの縁でシルクハットの淵を押し上げ、強引に紅茶を飲んでいるところだった。
 面倒なら脱げばいいのでは。そう思った有里栖だが、今それを言う時ではないことはわかっていた。
 シルクハットのせいで視線は合う事はないが、帽子屋の鋭い視線を感じた気がした。

 黒と白に交互に置かれた7つのチェアー。白い部分に有里栖は座り、3つ離れた黒い部分に三月は腰かけた。
 帽子屋は有里栖の真正面、カウンター越しに彼を見据え有里栖の言葉を待っていた。

「……何も聞いてない。ただ、アリスなの? って、聞かれただけで」
「あー……。ウサギっぽいな、それ」
「ここ、何なんだよ、俺元の世界に帰れるのか……?」

 ここが違う世界だという事も、夢でないという事も、知っている。
 いくら現実逃避しても鼻に届く香りが、目にした事実が、夢ではないと自分の感性が伝えていた。

 夢だって完全に否定する事は簡単だった。けれど、否定したところで事実は変わらない。有里栖は帽子屋に向かって真直ぐ視線を伸ばした。
 怖くて手は震えている。だらしなく足だって力が入ることはない。
 怖い。人を殺すことにためらいがない存在が。犯罪者集団の中、一人投げ入れられたようなものだ。それでも有里栖は聞かねばならない事がいくつもあった。

 ここは夢ではなく有里栖にとって現実の世界。夢のようなおとぎの世界。不思議の国、ワンダーランド。愛らしい少女の、不気味で愛しい世界で愛される話の舞台。
 その世界に迷い込んだなんて現実的ではない。けれどこれは現実だ。何故か有里栖は、それを認めることは思いのほか容易かった。

 有里栖の問いに帽子屋は腕を組み、しばらく思案しているように見える。
 シルクハットのせいで顔色はわからず、何を考えているのかわからなかった。

「……まあ、とりあえず。紅茶でも飲みながら一通りの事は話してやるよ。白ウサギの気まぐれは毎度のことだしな」

 落ち着いた帽子屋の声は、どこか呆れの滲んでいるものだった。




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