その日、おれは結局バイトを休んだ。

 先輩が和山先輩を中継ぎにし、オーナーに事情を話してくれたみたいで、怪我を治してから来い。と、メールが入ってきた。
 怪我は前よりも酷くはなかったけど、長時間雨に打たれたせいかおれは三日間寝込むことになった。
 ベッドの中では、色んな事が浮かんで、消えて、浮かんで。
 高熱で魘される世界の中で何回か先輩の声が聞こえた気がして、おれも大抵馬鹿だと思わずにいられなかった。

「………」
「おはよー」
「ちーっす」
「政哉、志岐君待っててくれてるわよ」

 パジャマのまま階段を降り、顔を洗って歯を磨く。
 朝飯を食べて、姉ちゃん起こさないとなぁ。そう、思いながらリビングに入れば見覚えありすぎる存在がいた。
 おれの席に座っている黒髪、赤メッシュ、目つきの悪い不良が一人。
 その隣には、既に化粧バッチリの姉ちゃんだった。
 平熱に下がり、体調もだいぶ回復したと思っていたけど眩暈がした気がした。いや、気じゃなくて、確実に眩暈がした。

「……なんで、いるんスか」
「迎えに来た」
「いや、まだ早いし。つーか、おれの場所」
「けち臭いわね、まさクン」
「姉ちゃんもなんで化粧バッチリなんだよ…」

 最早どこからツッコミを入れればいいか分からないほど、志岐先輩に姉ちゃんはフリーダムだ。
 食パンに噛り付いている先輩に言いたいことは沢山あったけど、先に制服に着替えて飯を食うことにする。
 見れば朝飯は米じゃなくてパンだ。
 行儀が悪いけど、歩きながらでも食べられるものだ。

 だったら、先に着替えて道すがら先輩に聞いたほうがいい。
 何より、あの場は家族がいる空間だし。そう思い踵を返せば、椅子の音が聞こえ、愛想のいい顔で志岐先輩は近づいてきた。
 間近になれば見上げるしかない身長差は最早気になるものじゃない。
 素直に見上げれば先輩はおれの手を掴んで「行こうぜ」と、実にスマートにおれの部屋にエスコートする。

「先輩…おれの部屋入ったことありましたっけ?」
「まあなー。風邪引いてたし、気づいてないかもしれねぇけど、見舞いに来たぞ」
「起こせばよかったじゃないッスか!」
「寝顔可愛かったし、優奈姉ちゃんにイロイロ教えてもらってた」

 優奈姉ちゃん。少し親しげな志岐先輩の言葉に悪寒が走る。
 あの女はたぶん、いい姉なのだろうけど基本はサディストだ。おれに関しては特に。
 じっと先輩に視線を向ければ、ニィと、嫌な笑みを向けられた。……ろくなこと、教えてねぇな、これ。

 ディープに聞いても自分が痛い目にあうだけだ。
 おれは保身のため、素直に口を閉じて、部屋に入っていく先輩の後ろについていった。
 自分の部屋に先輩が入っていくのは、変な感覚だった。
 見慣れたはずの場所に、一人、志岐伊織が登場する。それだけで、別の場所になっている気がした。
 すぐに着れる様にベッドの上に放り出された制服はいつも通りなのに、その制服の隣に先輩が座るだけで落ち着きが消えてしまう。

「早く着替えて学校行こうぜ。お前四日ぶりだと課題大変だな」
「…まあ、テストも近いッスからね」
「一応クラスの奴等がプリントとか届けに来てたんだろ?」
「そうッスね。……で、そのガン見の視線止めてくれませんか」
「どうぞ、続けて脱げ」
「脱げるかドスケベ」

 と、言いながら脱ぐのがおれだけど。男同士だからこの程度は躊躇しない。
 つまらなそうな志岐先輩の声が聞こえたけど、朝からつまらないことで遅刻をしたくないし……そういう、雰囲気になったら困る。
 ブレザーは手に持ち、ネクタイはもうしない。
 雨が降る気配もない空は、暑さだけを伝えている。
 梅雨は始まったばかりだけど、どうにもこの夏は例年よりも猛暑らしい。

 着替え終わったら先輩はちょいちょいと手だけでおれを招く。
 素直にそれに従い傍に足を向ければ、伸ばされた手がおれの腕を引っ張って、ベッドに座っていた先輩に覆いかぶさるような姿勢でおれは倒れる。
 慌てて立ち上がろうとしたら腰に手が回されて、ちゅっと頬からリップ音が聞こえてくる。

「…志岐、先輩」
「ばぁか。違う。伊織、だろ?」
「……言えるか」
「言った。お前は確かに伊織って言った」
「大体、先輩名前嫌いじゃないッスか」

 伊織。
 男らしくという意味をつけて志岐先輩の両親はつけたらしい。
 元々、太郎のように男子につけるある意味ポピュラー名前の「伊織」は、昨今の妙な名前ブームで伊織は割と女の子の名前になっている。
 香織、沙織、伊織のように女の子の名前に組み込まれたそれは、唯一の先輩の弱点というか、自分の中で嫌なものだった筈だ。

「政哉に伊織って呼ばれたら、嬉しかったんだから仕方ねぇだろ」
「……っ! は、恥じらいを持て!」
「オレがそんなの持つかよ」
「ぜ、絶対呼ばないッスよ…!」
「まあ、いいや」

 笑って先輩は身を起こし、ぎゅっとおれを抱きしめる。
 熱が上がる。でもこれは、風邪からの熱じゃない。
 心臓が五月蝿くて、止まれと思わず念じる。
 くつくつと喉で笑う先輩の声に、身体全部が支配される。

「好きって、言わせたのはオレだから。また、気長に待ってやるよ」

 嘘吐き。好きも、気長に待ってくれなかった。ほぼ力づくに近かったじゃないか。
 でも、そうじゃなかったらおれはいつまで経っても言えなかったかもしれない。ずっと、踏みとどまっていたかもしれない。
 周りの存在も勿論だけど、結局おれを動かすのは決まって先輩で。

「先輩」
「ん?」
「……もうちょい、ぎゅって、して…欲しい」

 ばぁか。
 そう言いながら、強く抱きしめる人が、おれは結局大好きなんだ。



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