「んっ…ふぅ、ぁっ」

 ざあざあと降っている世界の中で、おれの口の中に熱く、ぬるりとしたものが入り込んできた。
 力強く全部を攫いつくすような先輩の舌に、おれは背中に腕を伸ばして縋りつく。
 目を強く閉じて、眦からは涙と、空の雨が伝って流れる。
 おれの視界にはさっきまで普通の人が傘を差して歩いている姿が見えた。それなのに、おれはこんな所で先輩とキスしてる。
 口に触れるだけじゃなくて、口の中の奥深くまで蹂躙し尽くすような、そんなものを。

 息が苦しい。窒息してしまいそうだ。
 おれは素人で、どういう風に息をしたらいいのかわからない。
 先輩をそれを知っていて、ちゃんと気遣ってくれる人だったのに今は遠慮が欠片も無かった。
 前とは、明らかに違う。おれが舌を動かす暇も与えずに、中から食い尽くされる感覚がした。

「ふぁ…んぅ、や、せんぱ」
「――もっとしてぇ」
「むり……っ」
「悪ィ、止まんねぇ…」

 離れた唇が再度引っ付いて、ぎゅうぎゅうと口の中に舌が入り込んでくる。
 背中に添えられた先輩の腕が強くて逃げ出せなくて、口の中の舌が気持ちいいところばかり刺激していっぱいいっぱいになる。
 鼻に抜けるような、自分でも嫌になる甘ったるい声に死にそうになる。
 様々な意味で生死の境をうろうろしていたが、満足したのか、先輩はゆっくりと顔を放して困ったような顔をおれに見せた。

「…がっついちまった」
「はっ…息、だるい」
「ん、頑張ったな」

 背中を撫でながら志岐先輩は小さく声に出して笑う。
 その雰囲気が、さっきまで持っていた怖い雰囲気とも、えろいというか…切羽詰った? 雰囲気とも違っておれは戸惑う。
 じっと視線を上にし、顔を伺うように覗き込めば先輩は背中を撫でていた手でおれの頭をくしゃりと撫でた。
 人を殴っていた暴力の拳は、優しく、おれの頭を包み込んでいた。

「オレさぁ政哉が色々行動してくれるのって、あんまり言わねェけど、すっげぇ嬉しいわけ」
「……志岐先輩?」
「だってさ、政哉の行動ってオレ等の未来? っつーか、将来? を、考えてるもんだろ」
「……」
「でも、オレ今回で気づいたわ。誰がなんて言っても、お前がいつかオレの傍を離れても――オレは、お前を手放せない。お前の家族が反対しても、周りが何を言っても、オレはお前をここから、出してやらねェ」

 ここ、とは。思って、考えて、気づいた。
 閉じ込められている腕の中、それはまるで拙い檻のようにも思えた。
 けれど、鉄よりも頑丈な檻は、ずっとおれを拘束する。痛いほどの力に背骨がきしんだ。

「他人なんか関係ねェ、オレはお前が好きだ。それで上等だ」
「志岐先輩……キャラ、違いませんか?」
「うるせー。出し惜しみとか、回りくどいのは嫌いなんだっつの」

 先輩の言い方に、おれは迷う。
 男らしい先輩の言い方はかっこいいって思うし、おれもそうでありたいって思う。
 けど、おれが今ここで好きだって言えば、どうなるんだろう。
 一寸先の世界が見えなくて、不安で喉から音が消える。ただ、見上げた視線はじっと先輩と絡んでいた。
 吐き出す?
 自分の感情を。抱いている思いを。そうなったら、おれは――。

『政哉先輩は、自分で想っているより志岐先輩に必要とされてるんですよ』
 和泉が、おれの背中を押した。

『理想と現実は違うんだよ』
 悠一が、笑って諭した。

『政哉。言いたいことがあったら、頼れよ』
 裕人が、後ろを支えてくれている。

『……今度、その志岐くん。紹介しなさい。命令』
 姉ちゃんが、認めてくれた。


『でも、仕方ねぇじゃん。――好きなんだから』


 先輩が、好きだ。
 恋敵だった後輩が、クラスメイトの悠一が、幼馴染の裕人が、家族の姉ちゃんが、おれの気持ちを知ってくれている。 
 先輩以外にはちゃんと伝えているおれの感情。志岐先輩は、言葉として聞いていない。
 おれはそういうところが卑怯で、臆病なんだって今回の事で痛感した。知る事が出来た。でも、前に進めたのかまでは、わからなかった。

「お、れは」
「ああ」
「おれは、怖い…んだ。自分の感情一つで、今まであったものが崩れるのが」
「ああ」
「でも、」

 和泉にも、言った。怖くなかったか? 男だぞ? 常識は?
 考えて、考えて、知恵を借りて、人に言って、相談して。
 ぐるぐるぐるぐる考えて。でも、根底にはいつだって先輩がいて。
 男でも、不良でも、先輩でも、だって。仕方ないじゃないか。

 志岐先輩も、和泉も、言っていた。
 仕方ない。だって、好きになってしまったから。おれはなかなかそういう風に考えられなくて、躊躇して、踏みとどまって。
 でも、先輩が好きだって感情はどんどん膨らんでしまって。

「あんたは、あんたは知らないんだ」
「なにを」
「おれがどれだけ汚くて、気持ち悪い事を考えてるか! おれは――」

 好きだ。志岐伊織が、自分でも、止められないぐらい。
 先輩が自分で自分を傷つけるの許せないぐらい、志岐先輩からも独占したい。
 離れたいって言われたら、おれも、和泉みたいになるかもしれない。
 おれは、おれの想像以上に、志岐先輩が――。


「志岐先輩が……伊織先輩が、好きだよ…!」
「――」
「誰に反対されたって、あんたが好きだ。世間なんかより、あんたが大事で、おれは――」

 好きだ。
 その、言葉と一緒に唇が再度塞がれる。
 感情ごと飲み込んでしまうような口付けに、泣きそうになった。

 空はもう、晴れていた。



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