滴が、鼻先に落ちる。
 濡れた皮膚を覆うように頭上の雨が体に染みこんだ。

「ひっ」

 鼓膜が脅えた音を拾う。おれの首根を捕まえていた男が喉から自然に零したものだ。
 何もされていない。
 ただ、目の前でおれと一緒に圧倒的な暴力を見ているだけだった。

 一人の男が先輩を殴ろうと腕を振りかぶる。志岐先輩は膝を折り、その場にしゃがんで拳を避ける。
 そして、そのまま膝を伸ばし勢いを殺さず相手の腹に拳を埋め込む。
 吐瀉物がコンクリートの地面を汚し、男が突っ伏する。
 重苦しい音、おれが受けたものとは次元が違う拳の重さ。
 二人掛りで先輩を挟み込もうと彼らも動くのだけど、無駄なんだって双眸に見える光景で理解する。

 圧倒的なんだ、何もかもが。

 力も、俊敏さも、喧嘩の仕方も。志岐伊織の上に立つことなんてできない。
 鉄パイプを握り締め二人が先輩に向かって振り下ろす。武器を持っているのに、その顔には恐怖があった。
 振り下ろされた鉄パイプは鉄特有の甲高い音を響かせず、人を殴った独特の音も響かさなかった。
 その代わり、それぞれが先輩の手の中に納まっていた。
 鉄パイプを握り締めたまま先輩は両腕に力を入れ、交差するような形に先腕を動かす。
 鉄パイプがそれに従い交差し、手を離す暇すらなかった二人の不良の鳩尾に綺麗に入った。

「がっ!」

 喉の奥で悲鳴が詰まった音がステレオで耳に入った瞬間、二人は倒れていたひとりの上に倒れこんだ。
 一度見たはずの光景。容赦なく、圧倒的で、異質な存在感。背筋が震えた。
 まばたきすら出来ない程の素早さで繰り出された容赦ない暴力。
 残されたおれと、おれを掴んでいる男は言葉を忘れていた。志岐先輩は、じっと、倒れた四人に視線を下ろしていた。

 ざあああああああああ。
 雨の音が、静寂を破り続けている。

 一体、どれ程の時間が経ったのだろうか。
 ゆっくりと志岐先輩は顔を動かし、おれに視線を向けた。
 雨のせいで前髪の赤いメッシュが額に張り付いている。表情は、よくわからなかった。
 湿度100%の世界の中でおれの喉はカラカラに渇ききっていて、声を発せ無かった。

「く…来るな!」
「政哉」
「……志岐、先輩」
「こいつぶっ殺すぞ!!」
「悪ィなぁ」

 首根を掴んでいた手が回りこみ、相手の腕がおれの首に回りこむ。
 触れている背中からドクドクと馬鹿みたいに早くなっている、男の心臓の音が聞こえてきた。
 悪ィって、誰に向かって、どういう意味で言われた言葉なんだ。
 場違いだけどおれはそんな事を考えて、首を絞めようとしている男の熱を静かに感じていた。
 けど、その答えはすぐに志岐先輩から返って来る。
 真直ぐな眼差しが向かう。隠れていた目元が上がった顔で見えた。
 シニカルな笑みを浮かべ、いつものように笑っている先輩に鳥肌が立った。


「――もう、手放せねぇわ」


 落ちていた鉄パイプを掴んだかと思えば、志岐先輩は躊躇する事無くそれをおれと男の隣に投げつけた。
 ガァアアアアンッ!
 鉄パイプがコンクリートにぶつかり、耳に痛い音を発する。路地の狭い世界に、まるで全てを支配するかのような音は反響し、幾度も繰り返す。
 体は自然に音に震え、それは背にいた男も同じだった。
 その隙に志岐先輩は放り出されていたおれの腕を引っ掴み、脱臼するかと思うような力でおれを引っ張った。
 志岐先輩はおれを胸に抱きとめ、そのまま長い足をダン! と、先ほど鉄パイプを投げつけた男の隣に置いた。

「舐めた真似してくれたな、おい」
「ひっ……!」
「死にたくなるような痛み与えてやろうか? それとも、寝ているこいつらみたいにしてやろうか?」
「ゆ、るし」
「また、こいつに手ェ出してみろ。――殺さず、一生、痛めつけてやる。寝てる奴にも伝えておけ」

 胸の中にいて、先輩の顔は分からなかった。
 ただ、ずるずると何かが壁を這って倒れる音が聞こえてきた。
 片腕で痛いほどおれを抱きしめていた先輩は、そのままおれを引きずって大通りまで案内していく。

 びしょ濡れだった。二人とも。
 沈黙と雨音。繋がっている手に視線を下ろす。自然な形で繋がっているそれは、痛いほどの力が込められている。
 普段の軽口が聞こえない。あまり慣れない空気にじっと志岐先輩を見つめる。
 先輩の顔は、雨のせいでよく分からなかった。

「――志岐、先輩?」

 ひくりと、握った手が震えた。おれの歩幅を考えている歩く速さ。
 路地の終わりには明るい光が見えている。後数メートル先に進めばさっきの空間が嘘みたいな、いつもの世界が広まっている筈だ。
 でも、先輩はそこで足を止めた。おれも、自然に足が止まる。
 握ったままの手を強く握られた。そして、そのまま体が志岐先輩の胸の中に招かれて強く抱きしめられる。
 おれの視界には傘を差して歩く町の人の姿が見えていた。

「……政哉」
「は、い」
「どっか、痛ェ?」
「だ、いじょうぶッス」
「嘘ついてたら襲うぞ」
「……腹」
「……ごめんな」

 抱きしめられて背骨が悲鳴をあげた。
 でも、謝る声が泣いている気がして、おれは止めろって言えなかった。それに、これはおれも望んでいたことだったから。
 手を繋いで、抱きしめて欲しい。力いっぱい、全身で志岐先輩を感じたかった。

「政哉」
「はい」
「悪ィな」
「……何に対してッスか」
「お前が襲われたのに、オレはお前を手放せそうも無いから。これからオレの事でお前が傷ついても、オレはお前を――手放さない」

 息を、呑んだ。
 その瞬間、深く、深く。生暖かくて柔らかい感触が唇に触れた。



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